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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

まえがき

―愛媛の地誌の系譜―

 古代中世の地誌

 奈良時代の官撰地誌に『風土記』がある。常陸・出雲・播磨・肥前・豊後の風土記は残っているが、『伊予風土記』は鎌倉時代までは残っていたらしいが、今は逸文として、大山積神・天山・熊野峰・湯郡・伊佐爾波之岡・熟田津・二木・息長足日命御歌など八項目が残っているに過ぎない。『延喜式』や『和名抄』によれば、伊予国には次の一四郡があり、その下に七二郷があった。郷はもと里と称し、一里とは民戸約五〇の集落を称した。一郡は二〇里を限度とし、若し六〇戸に満つると一〇戸を割いて一里を置き、一〇戸に足らないものは大里に入れ余戸とした。当時の伊予国の郡と郷を参考までに列挙する。
 ①宇摩郡―山田・山口・津根・近井・余戸 ②新居郡―新居・島山・井上・加茂・立花・神戸 ③周敷郡―田野・池田・井出・吉田・石井・神戸・余戸 ④桑村郡―籠田・御井・津宮 ⑤越智郡-給理・高橋・鴨部・立花・日吉・桜井・新屋・高市・拝志・朝倉 ⑥野間郡―宅万・英多・大井・賞多・神戸 ⑦風早郡―粟井・河野・高山・難波・那賀 ⑧和気郡―高尾・吉原・姫原・大内 ⑨温泉郡―桑原・垣生・立花・井上・味酒 ⑩久米郡―天山・吉井・石井・神戸・余戸 ⑪浮穴郡―井門・拝志・荏原・出部 ⑫伊予郡―神前・吾川・石田・岡田・神戸・ 余戸 ⑬喜多郡―矢野・久米・新屋 ⑭―宇和郡―石野・石城・三間・立間
 この郷名をみると、今の愛媛県の市制の一二の地名が全くない。これは延喜・延長・承平の時代には大きい集落がまだ発達していなかったためと思われる。また浮穴郡に久万や小田の地名がなく、宇和郡に津島・御荘の郷名がなく、喜多郡に内子方面の地名もない。
 中世の『吾妻鏡』や『太半記』には東予地方の地名がかなり出てくるし、『源氏物語』や『枕草子』には伊予すだれがとりあげられている。


 江戸時代の地誌

 藩政時代には地誌的なものが出ている。伊予国全域にわたるものには、慶安元年(一六四八)の『知行高郷村数帳』と元禄一三年(一七〇〇)の『伊予国村浦記』があり、各藩各村の石高がわかる。『伊予二名集』は文化年間(一八〇四―一八)、新居郡新須賀村の岡田通載が伊予国全域にわたって、城砦・社寺・名所・旧跡を述べている。これは新居郡は詳しいが、他の地域は粗略である。『伊予古蹟志』は文政年間(一八一八―三〇)、松山藩の野田石陽が編集したもので、伊予国の一四郡の郷村の社寺・城砦・旧跡について記している。
 『愛媛面影』五巻は幕末(序文慶応二年)に今治藩の半井梧奄が実施調査して纒めた今までにない立派な地誌である。巻一は宇摩・新居・周布・桑村の四郡、巻ニは越智・野間の二郡、巻三は風早・和気・温泉の三郡、巻四は久米・伊予・浮穴・喜多の四郡、巻五は宇和郡である。東予から郡毎に、城下町・陣屋町・在郷町、社寺・名勝旧跡の雨来・伝承・現状を記述している。有名な石鎚山や岩屋寺、松山城などを見事にスケッチし、カットが三七も載っており、引用書が一一四種もある。越智・野間地方では国分寺唐子山・今治城・大山積神社・總社川・多伎神社・波止浜のスケッチがあり、参考になる。本書の初版は明治二年に刊行され、次いで同四三年と昭和四年に重版された。これらは同じ版本で刷られ、和製本であった。戦後昭和四一年愛媛出版協会(会長三宅千代二)から影印本で出版されたが絶版になった。昭和五五年伊予史談会(会長景浦勉)双書第一集として、越智通敏委員の努力で(B6版二三二頁一五〇〇円)出版され普及している。


 明治時代の県地誌

 県全域にわたるものとしては、明治六年(一八七三)に石鉄県が編集した『伊予国地理図誌稿』一五冊がある。宇摩・新居・周布・桑村・越智・野間・風早・和気・温泉郡の伊予国の東半分の地誌が残っている。各町村別に境域・田畑面積・戸口・舟車数・牛馬数・物産・山川池・社寺などを記載し、所々に詳細な景観図が挿入されている。
 『伊予国各郡地誌』は明治一一年(一八七八)から一九年(一八八六)に亘って愛媛県庶務課が編さんした地誌で、明治八年(一八七五)太政官令により内務省地理局に納めた副本が残っている。内容は彊域・幅員・管轄沿革・里程・地勢・気候・風俗・地味・町村数・官有地・程地・貢租・戸数・人数・牛馬・舟車・山林・道路・社寺・学校・病院・郵便所・物産・民業につき記し、各村別に右項目を記している。明治一一年に温泉郡、同一三年(一八八〇)に風早郡、同一四年に野間郡と和気郡、同一七年に越智・周布・桑村・久米郡、同一九年に新居・宇摩郡が納付されており、浮穴・伊予・宇和郡は未定稿となっている。
 『愛媛県農事概要』は明治二四年(一八九一)に、勝間田稔知事時代に、山本亀三農学士が主任で編集した農業地誌といえる。土地、九三品目の物産の生産量と価格などを都市別にまとめた五年間の統計がある。また主なる農産物の詳細な由来が記述されている。県の累年統計は明治三八年(一八〇五)からでないと揃っていない愛媛県にとって、明治二〇年代の統計があり、貴重な農事概要書である。
 『伊予温故録』は明治二七年(一八九四)、新谷藩士の宮脇通赫撰の愛媛県全域を纒めた地誌的文献である。地図や表や写真はないが、内容は伊予の地勢、租税額と戸口、学校社寺数、国史に載っている伊予国の故事、地名考、伊予親王系図・越智系図・河野系図・伊予国の沿革略。市郡部は地勢沿革、田畑宅地の反別地価、戸口、名山河川、島嶼、官庁・学校・社寺、国史に載っている故事・物産・石高、明治二二年(一八八九)町村制、名所古跡・温泉・鉱石・名木等が詳細に記述してある。松山市以下一八郡を東から列挙している。大正一三年一月に『続伊予温故録』が相続者宮脇弘によって出版された。附録に『予陽河野家譜』がある。
 『大日本地誌』に第七巻四国篇は、山崎直方・佐藤伝蔵共編、明治四一年(一九〇八)博文館発行の双書である。第一篇地文・第二篇人文・第三篇地方誌の構成である。市と町の解説があり、当時の地図や写真に貴重なものがある。
 山下直平著『愛媛県地誌』A5判二一八頁は明治四三年(一九一〇)松山市港町、土肥文泉堂発行である。第一篇自然地理・第二篇人文地理・第三篇処誌で、一市で一二郡について記述している。


 明治末期の郷土誌

 明治四三年に愛媛県は町村に郷土誌の編集を命じ、目次を指示している。第一篇自然誌は 案内地誌ブーム 位置・面積・地勢・池滝・地質・気候・生物・変災の八章、第二篇人文誌は沿革・大字区域・戸口・官街・経済財政・生業・教育・軍事・神社・宗教・民俗・衛生・交通・各種団体・名所旧跡・古墳・人物小伝の一」章よりなる。町村郷土誌は二~三年の間に大部分が作成されており、大半が残っている。北宇和郡の町村郷土誌は現在愛媛県宇和島地方局に二七か村分か揃えて保管されている。


 大正・昭和戦前の県地誌

 大正二年(一九一三)に羽田又永著の『愛媛県郷土地図』B6判横組一六頁土肥与平発行、発売所(松  山市湊町三)大和屋書林、定価八銭が出版された。大正三年には大和屋書店発行の『愛媛県案内』B6判二〇〇頁が出ており、当時の竹細工・木蝋・和紙などの製造戸数・産額統計や広告などに貴重な地誌的資料がある。大正五年(一九一六)世界公論社発行の『愛媛県勢誌』A5判四六〇頁は安藤音三郎編である。内容は産業交通など統計が多く、図表や写真の参考になるものがある。
 『愛媛県誌稿』上下二巻は、愛媛県が明治四二年(一九〇九)に着手し、大正六年(一九一七)発行である。編さんは陶山斌二郎・羽川又永・景浦直考の三氏で、貴重な統計資料も記載されている。上巻は第一部地理 第一篇概要 第一章位置 二地勢 三海岸島嶼 四地質 五鉱泉 六動植物 七気象 八戸口 九交通。第二篇市部 第一章松山市 第一節地文 第二節人文 二温泉郡 三越智郡 四周桑郡 五新居郡 六宇摩郡 七上浮穴郡 八伊予郡九喜多郡 十西宇和郡 十一東宇和郡 十二北宇和郡 十三南宇和郡。第二部沿革(上) 第一篇王朝時代 第二篇武家時代 第三篇藩政時代 第一章伊予八藩の沿革 二伊予各藩の財政 三各藩の文芸。下巻第二部沿革(下) 第四篇県治時代 第三部神社及宗教 第四部教育 第五部産業 一農産 二畜産 三林産 四水産 五工産 六鉱産 附録 一県治年表 二国宝及特別保護建造物 三著名人物伝よりなる。上巻九三四頁 下巻一二二九頁の浩瀚な書物であるが、誌稿のため仮綴で、地図や写真などカットは皆無である。しかし紙漉業の原価計算なども入れてあり、内容は立派な地誌である。
 昭和戦前・戦時中は愛媛県の地誌に関する書物は比較的少ない。昭和七年頃から郷土教育や郷土調査は盛んとなり、昭和一一年に男子師範の野沢浩(教授)が『郷土地理論集』を出版している。


 戦後の県地誌

 全県的なものに、田中啓爾監修村上節太郎著、昭和二八年日本書院発行の双書『愛媛県新誌』B6判二〇〇頁がある。内容は(一)四国の雄県愛媛 (二)美しい海と山 (三)二つの気候タイプ (四)各地の生活様式(一六地域) (五)産業の地域性 (六)交通商業に恵まれぬ愛媛 (七)地域色のある民家と集落 (八)人口の分布と移動 (九)行政区と地理区 (十)結び の小冊子である。これより先、村上は昭和二四年に実業出版社から『私たちの郷土愛媛県』B6判一二九頁を、清水書院から『わが郷土愛媛県』B6判一二〇頁を出した。
 『愛媛県史概説』上下ニ巻は、昭和三四・三五年に県が発行している。上巻五九〇頁、下巻六二〇頁のA5の手頃な書物で、短期間に編集した。県史のうち地誌的な項目は、第一章地域社会の概観 (一)四国の雄県愛媛 (二)愛媛の自然環境と資源 (三)産業と交通 (四)都市と人口増加 第一二章工業地帯の形成 第一三章交通運輸通信の発達 第二四章戦後の産業交通と総合開発 外篇第四章風水害 第五章移民などである。目下刊行中の愛媛県史四〇巻は、このとき果たせなかった出版が二〇年後に結実したものである。
 『愛媛県産業地誌』は昭和四〇年にA5判五七八頁で次の四名が分担執筆している。「愛媛の漁村と水産業」武智利博、「愛媛の林業と山村」相馬正胤、「愛媛の農村と農業畜産業」村上節太郎、「愛媛の都市と工業」石水照雄。村上節太郎が編集し、県企画部企画調整課発行である。
 『愛媛県町村合併誌上巻』は別名『愛媛県町村沿革史』とも称し、昭和三九年発行のA5判四一八頁で、編集者は三宅千代二である。地理と地図は村上節太郎が、通史の古代中世近世は伊藤義一が、明治以後は三宅千代二が分担した。また町村の動きについては東予を三宅、中予を伊藤、南予を村上が分担執筆している。
 昭和五一年に斉藤正直教諭が『愛媛県地理歴史序説』B5判三四三頁の史料集を個人で出版した。
 愛媛県の高等学校では、教育研究会社会部会地理部門から『愛媛の地域調査報告集』B5判六八三頁が、一九八〇年に石丸博部門長により出版された。これは野沢浩初代会長時代の一九五八年青島の共同地理調査以来の二〇余年にわたる集大成である。県内十余か所の実地調査の報告書を印刷したもので、当時の資料が今では貴重である。
 近年は地名研究のブームで、周知の如く、平凡社から『愛媛県の地名』B5判七六五頁が、一九八〇年に発行された。角川書店は昭和五六年に『角川日本地名大事典38愛媛県』A5判一一六六頁を出している。
 『日本地誌18巻四国篇』は昭和四四年青野寿郎・尾留川正平編集で二宮書店から発行された。全国的地誌は山崎直方・佐藤伝蔵監修の『大日本地誌』第七巻の博文館発行以来六一年目である。B5判五五三頁のうち愛媛県の部は一二三~二九八頁で、内容は愛媛県総説(担当村上)(1)地理的性格 (2)歴史的背景 (3)自然―地形気候 (4)人文―農牧林業・水産業・鉱工業・交通通信・商業貿易・観光・地域開発・人口・集落・政治・文化。愛媛県内地域誌 (一)中予(横山)地域の性格、松山平野の開発と変容、農林水産業の開発、観光地の開発、主な都市。(二)東予(石水)地域の性格、東予地域の近代工業、地場産業とその展開、農水産業の展開、東予の地域開発、主な都市。(三)南予(相馬)地域の性格、段畑の形成と現況、果樹と酪農の発展、宇和海漁業の推移、観光地の開発、主な都市より成る。
 本書では大洲盆地を松山地区(中予)に入れている。本書はカットが多く図表の作成者と資料を明記し、写真は撮影者と撮影年月日を記している。
 戦後の科学的地誌は、単なる記述でなく、地域の性格を究明することにある。それには他の地域と比較しなければならない。歴史が時代的対比をするに対して、地理は地域的対比をする。歴史の過渡期が地理では漸移地帯である。項目も内容を具体的に適確に表し、分布現象や地域差の要因も、根拠をもって解明することである。


 江戸時代の東予西部の地誌

 江戸時代、今の越智郡・今治市に関するものに、次の文献がある。『今治夜話』五巻文化一四年  戸塚政興著。本書は今治藩主の松平定房の就封から、文化年間に至る逸話や諸雑記を集録している。『続今治夜話』は服部正弘の著作である。正弘は明治維新当時の今治藩の家老で、大著『今治拾遺』五〇巻を編集している。『今治夜話』『続今治夜話』は昭和五六年に、伊予史談双書の第二集として出版された。『今治拾遺』五〇巻は県立図書館で見ることができる。嘉永五年(一八五二)に執筆された『越智島旧記』井ノロ村という古文書が、上浦町歴史民俗資料館に所蔵されている。
 東予地方の近世地方史料として、斉藤正直が次の如き古文書を解読し、自費出版している。(1)『今治領越智郡古国分村由来記』(元和元歳より)A5判四六頁(昭和五〇年) (2)『松山領野間郡県村庄屋越智家史料』(大半は江戸後期のもの)A5判九六頁(昭和五〇年) (3)『今治市国分加藤家記録国府双書』(全六五巻よりなる)A5判一二三頁昭和五一年発行 (4)『松山領波止浜町「町方覚日記」』 A5判八九頁昭和五二年発行。
 『愛媛面影』には既述の如く、半井法橋梧菴(一八一三―一八八九)が、慶応二年七月に著した地誌で五巻よりなる。巻一は宇摩・新居・周布・桑村の四郡で五五頁まで、巻二は越智・野間の二郡で一〇四頁まで、巻三は風早・和気・温泉の三郡で一四五頁まで、巻四は久米・伊予・浮穴・喜多の四郡で一八三頁まで、巻五は宇和郡で一八六~二三〇頁までとなっていて、当時はまだ東西南北に分かれていない。著者は今治藩医の家に生まれ、国学・漢籍・歌詞・語格に通じ、古文献・伝承をあまねくあさり、実地調査を行っている。記述は原拠を明らかにし、自分の考は「按ふに」として、科学的に論じており、幕末明治維新の著書としては全く立派で敬服する。参考までに越智郡と野間郡の項目を列挙する。
 越智郡では、九七か村について次の項目をとりあげている。国分山城址・脇屋刑部墓・国分寺・塔礎・法華寺・綱敷天満宮・拝志町・今治城・大山積神社・佐理郷額・宝物・三小嶋・岩城島・誕生石・能島城址・伊方神社・津島神社・大浜八幡宮・伊賀山・篠塚伊賀守墓・弓削神社・総社川・別宮大山積大明神・蔵敷八幡宮・鴨部社・姫坂神社・近見山・僧都水・海禅寺・鯨山・大須木神社・伊予熊権現社・和霊社・大野神社・鷹森城墟・桂山法蔵寺・重茂城墟・幸門城墟・楢原山・光林寺・作礼山仙遊寺・犬塚池・石清水八幡宮・伊加奈志神社・浄寂寺・鷹取城址・多伎神社・川上巌・塚内・霊山城址・樟本神社・八矧八幡宮 以上五二項目ある。
 野間郡では、二九か村について、野間神社・円明寺・延喜観音・波止浜・円蔵寺・来島・干潟浦・筥潟・宮崎・怪島・津尾崎・松尾滝の、一二項を挙げている。


 明治・大正期の東予西部の地誌

 明治四三年(一九一〇)に県より命ぜられ、郷土誌を編集している。項目を指示され、正副二通  は執筆しているが、活字にしている町村は余りない。多くは肉筆か騰写刷りである。次の町村の郷土誌が残っている。盛口村・瀬戸崎村・上朝倉村・乃万村・小西村・大井村・鈍川村・竜岡村・関前村・宮浦村・渦浦村・弓削村。
 大正期の文献としては、渡部幸四郎著(一九一六)の『大典記念越智郡々勢誌』A5判六〇七頁があり、大島石や鎌倉末期の宮浦の古図などが紹介されている。大正一五年(一九二六)に一色耕平が『愛媛県東予煙害史』A5判四九〇頁を出版している。


 昭和戦前の東予西部の地誌

 (1)昭和四年に玉田栄二郎講述『今治市越智郡郷土史要』A5判一二九頁が、今治市郷土史講座から出版されている。(2)同年に、原秀四郎博士の『越智郡郷土誌材』A5判一九三頁が、玉田栄二郎・三宅千代二らにより、明治四四年当時の講演を、後年出版したものである。博士は原真十郎の兄で、日本の歴史地理学の先駆者である。(3)昭和六年に飯尾幸三著『今治市越智郡大観』A5判四七四頁が出たが、人物伝が主である。(4)昭和七年には、綿貫勇彦が、新しい地理的センスで、『瀬戸内百図誌』B6判一二二頁を刀江書院から出している。(5)同七年に、森光繁編『郷土と読本』A5判二三二頁が出版され、盛が外国にまで知られ、郷土教育のメッカといわれるに至った。(6)昭和八年には、越智郡勧農懇談会が、『勧農』の特産物紹介号(A5判一三〇頁)を出している。岩城村の芋菓子と紙糊、鏡村の除虫菊の起源と統計など貴重な資料がある。(7)昭和九年には鏡村が、『鏡村経済更生計画書』A5判五七頁を出している。各町村がそれぞれ出した時代である。(8)昭和一一年発行の『明治以前日本土木史』、(土木学会編)に、岩城港の記事がある。都と大宰府の交通の要路で、寛仁年間(一〇一七~二〇)にすでに開けていた。(9)昭和一二年には、三島安精が大三島史談会を創立し『大三島史談』創刊号を、翌年第二輯を出している。(10)昭和一三年には、日野文雄が「二、三の生活様式より観たる瀬戸内小島及来島の地誌学的研究」を『地学雑誌』の一月号と二月号に発表している。(11)昭和一四年には、森光繁著『わが郷土』波止浜郷土会(会長原真十郎)A5判四四五頁が出版された。(12)昭和一五年には、アチックミューゼアム ノート第一七に、『瀬戸内海島嶼巡訪日記』一六魚島(磯貝勇) 一七高井神島(宮本馨太郎)の記事があり、当時の生活がわかる。
 昭和一七年には、期せずして次の三者が、弓削島の荘園について発表している。(13)竹内理三『寺領荘園の研究』弓削島荘 畝傍書房 (14)清水三男『日本中世の村落』弓削島荘 日本評論社 (15)長山源雄「伊予に於ける荘園の研究」弓削島荘『伊予史談』一一一号。昭和一八年には (16)清水三男「塩の荘園伊予国弓削島」『歴史学研究』七巻五号 のち『中世荘園の基礎構造』に収録した。(17)同年玉田栄二郎編『今治市誌』A5判一〇〇七頁が出た。


 昭和戦後の東予西部の地誌

  今治・越智地方は、地理学的に興味のある所なので、『町村誌』を除いても、地理学的論文ブーム や著書や報告書が四〇点ほどもある。
 (1)西原温一郎著 一九四八年『越智農業概論』B6判九二頁 越智農業文庫第四輯 越智農業研究会刊(2)昭和二四年には、二神弘が『瀬戸内海多島海島嶼地理学方法論』の論文を、東大理学部地理学教室発行の『東大地理学研究』の創刊号に発表している。(3)昭和二六年には、村上節太郎が「瀬戸内の鯛網」の論文を、日本書院発行の『地域』第四号に載せている。(4)同年、菅原利(金編に栄)が『今治綿業発達史』A5判二八八頁を、今治綿業倶楽部篇で出している。(5)同二八年には、彼は『今治タオル工業発達史』A5判一七六頁を出した。(6)昭和三〇年には、愛媛県農業改良課が、技術普及資料五九号に、『除虫菊の栽培』B5判二三頁を発行している。(7)昭和三一年には、菊間小学校が『郷土のありさま』―附野間郡手鑑―B5判三七七頁を出している。(8)昭和三五年には、河野通博が「島嶼経済の変質過程―半農半漁村の経済地理学的研究」(関前村岡村島)―の論文を、『岡山大学法文学部紀要』一四号に発表している。(9)彼は更に昭和三九年「明治後半期における内海島嶼部一村落の統計的考察(宮窪村)」の論文を、『岡山大学法文学部紀要』一九号に発表した。(10)昭和三七年に、『今治商工会議所六十年史』A5判五四五頁が出版されている。(11)昭和四〇年には、森光繁著『教育は生きている』A5判五〇三頁が、今治経済倶楽部から発行された。(12)昭和四二年に、東予地区の柑橘栽培について、村上節太郎が『柑橘栽培地域の研究』に、大三島・関前村・大島・上島諸島について記述している。(13)同年海洋気象学会が、『瀬戸内海の気象と海象』B5判横三六〇頁を、『海の気象』特集号として出している。(14)同年県教委が、『越智郎島嶼部の民俗資料調査』B5判一四一頁を発行している。(15)瀬戸内海大橋(今治~尾道)『経済調査報告書』(委員長東大教授八十島義之助)Iが昭和四三年二月に、Ⅱが四三年一一月に出ている。(16)昭和四三年、森光繁篇『波止浜塩業史』A5判五四三頁が出版されている。(17)同年、越智郡校長会篇『越智郡郷土人物伝』明治百年記念B5判一九七頁が出ている。(18)昭和四五年、横山昭市が、「愛媛県上島諸島」について、『しま』六七号(全国離島振興協議会機関誌)に論文を発表している。(19)同年、『愛媛県上島諸島経済調査報告』執筆者主査浅野芳正・村上節太郎・横山昭市・宮本義孝・小野博司 B5判横一二六頁 日本離島センター刊が出版されている。(20)昭和四六年に、木本正次著『四阪島』上B6判二九五頁 (21)昭和四七年に、同著『四阪島』下B6判二八四頁が講談社から発行されている。(22)昭和四七年に、関西学院大学地理学研究会 地理研瀬戸内調査シリーズ5『魚島・見島』A5判一七九頁が出ている(23)昭和四八年に、愛媛大学瀬戸内地域開発共同研究組織編で、『瀬戸内の地域開発に関する研究』を出版した。この研究はアジア財団の研究費を得たもので、昭和四〇年に始まった。本報告書はB5判五四六頁で、執筆者と主なるテーマは次の如くである。石水照雄―開発理念 相馬正胤―開発構想 永井浩三―地質 西岡栄―水資源 宮四号に発表している。(9)彼は更に昭和三九年「明治後半期における内海島嶼部一村落の統計的考察(宮窪村)」の論文を、『岡山大学法文学部紀要』一九号に発表した。(10)昭和三七年に、『今治商工会議所六十年史』A5判五四五頁が出版されている。(11)昭和四〇年には、森光繁著『教育は生きている』A5判五〇三頁が、今治経済倶楽部から発行された。(12)昭和四二年に、東予地区の柑橘栽培について、村上節太郎が『柑橘栽培地域の研究』に、大三島・関前村・大島・上島諸島について記述している。(13)同年海洋気象学会が、『瀬戸内海の気象と海象』B5判横三六〇頁を、『海の気象』特集号として出している。(14)同年県教委が、『越智郎島嶼部の民俗資料調査』B5判一四一頁を発行している。(15)瀬戸内海大橋(今治~尾道)『経済調査報告書』(委員長東大教授八十島義之助)Iが昭和四三年二月に、Ⅱが四三年一一月に出ている。(16)昭和四三年、森光繁篇『波止浜塩業史』A5判五四三頁が出版されている。(17)同年、越智郡校長会篇『越智郡郷土人物伝』明治百年記念B5判一九七頁が出ている。
 (18)昭和四五年、横山昭市が、「愛媛県上島諸島」について、『しま』六七号(全国離島振興協議会機関誌)に論文を発表している。(19)同年、『愛媛県上島諸島経済調査報告』執筆者主査浅野芳正・村上節太郎・横山昭市・宮本義孝・小野博司 B5判横一二六頁 日本離島センター刊が出版されている。
 (20)昭和四六年に、木本正次著『四阪島』上B6判二九五頁 (21)昭和四七年に、同著『四阪島』下B6判二八四頁が講談社から発行されている。(22)昭和四七年に、関西学院大学地理学研究会 地理研瀬戸内調査シリーズ5『魚島・見島』A5判一七九頁が出ている。
 (23)昭和四八年に、愛媛大学瀬戸内地域開発共同研究組織編で、『瀬戸内の地域開発に関する研究』を出版した。
この研究はアジア財団の研究費を得たもので、昭和四〇年に始まった。本報告書はB5判五四六頁で、執筆者と主なるテーマは次の如くである。石水照雄―開発理念 相馬正胤―開発構想 永井浩三―地質 西岡栄―水資源 宮久三千年―地下資源 山畑一善―林業 菊池和雄―柑橘園と生産費と経営分析・急傾斜地 二瓶暢祐―農道 石川康ニ―青果物の流通 村上節太郎―瀬戸内海の塩田の開発と転用 横山昭市―工業用水利用の類型と開発上の課題 石水照雄―都市化と工業化 安山信雄―交通体系 広田直憲―公害問題
 (24)昭和四八年に、吉野正敏・村上節太郎「大三島浦戸における塩田跡地みかん園の冷気湖」の論文を『農業気象』第二九巻第二号に発表している。(25)昭和四九年には、愛媛大学民俗学研究会が、『魚島民俗誌』B5判一三四頁の調査報告書を出している。(26)昭和五〇年には、松岡進著『瀬戸内文化の研究』―史跡大三島―B6判二七八頁が出版されている。(27)同年、関西学院大学地理研究会 地理研瀬戸内調査シリーズ9『岡村島』が発行されている。(28)同年藤原道一著『近世庶民生活史の研究』―芸予沿海地域を中心に―松山藩の水主役 松山藩の地割制度 越智島の地坪と農業経営 A5判二〇六頁 広大東雲分校日本史研究室発行(29)昭和五二年には、『ふるさとなみかた』―歴史と民俗―A5判三一六頁が、波方町教育委員会から出版されている。(30)同年、岡山大学の神立春樹・葛西大和共著で、『綿工業都市の成立』―今治綿工業発展の歴史地理的条件―が古今書院から刊行されている。(31)昭和五四年には、住友金属鉱山㈱別子事業所が、『四阪工場』を出している。(32)昭和五五年には、愛媛県高等学校教育研究会 社会部会地理部門長(石丸博)が、二〇余年に亘る、共同実地調査の報告書をまとめて出版した。『愛媛の地理調査報告集』B5判六八三頁「越智郡島嶼部の共同調査」が、二七九~三六七頁に記載されている(昭和四一年調査)(33)昭和五六年には、田和正孝の「越智諸島椋名における延縄漁場利用形態」が『人文地理』三三巻四号に載せられている。(34)昭和五七年には、近藤福太郎著の『高縄半島と芸予の島々』―その地理歴史研究―A5判横一八一頁が、「ふるさとをしらべる会」(大西町新町)から発行された。(35)同年、四国タオル工業組合から、『えひめのタオル八五年史』辻悟一著 B5判横四六二頁が発行されている。(36)昭和五八年に、山内譲が「弓削島と瀬戸内海の海運」という論文を、『郷土史展望』第二号(日本郷土史刊行会)に載せている。(37)同年、佐伯増夫が、還暦記念に『島に生きる』―魚島村長の離島過疎振興記・おもろい村長の夢―B6判二八二頁を著し「和と道の会」より発行している。
 (38)同年、地方史研究協議会篇『瀬戸内社会の形成と展開』―海と生活―A5判三七三頁 雄山閣出版 刊行 本書でとりあげられている東予地方に関係のある執筆者とテーマを列挙する。岡本健児―考古学よりみた北四国と南四国 青野春水―近世瀬戸内海島嶼村落における出稼と株受 景浦勉―忽那村上水師の動静概観 小林昌ニ―藤原純友の乱と伊予地域 福川一徳―戦国期における伊予と豊後 奥須磨子―愛媛県における近代都市 山内譲―南北朝室町期の弓削島庄と水運 伊藤義一―伊予松山藩主の参勤交代 岩橋勝―伊予における銭匁遣い西海賢ニ―瀬戸内沿岸における石鎚講の展開
 (39)昭和五九年には、近藤福太郎著『伊予桜井漆器史』A5判五六頁が今治桜井添器協同組合から発行された。(40)同年、大西町新町のKK来島どっく組合事務所から、『来島どっく造船グループ』B5判三三頁が出版されている。(41)同年、『今治商工会議所八十年史』B5判四二四頁 が印刷された。(42)昭和六〇年に、山内譲著の『弓削島荘の歴史』が弓削町から発行された。(43)同年、『今治の歴史』A5判二二五頁が、今治市教育委員会・今治史談会から発行された。(44)同年、村上和馬著『伯方島の歴史と伝説』B6判一六一頁が、伯方町教育委員会から発行された。(45)昭和六一年、村上節太郎が「芸予諸島における芋地蔵の分布」の小論を、愛媛県文化財保護協会発行の、『愛媛の文化』の二十四号に載せている。(46)同年、広大の森川洋・甲斐重武が「瀬戸内島嶼部の農業とその地域類型」B55判横一七頁を、『内海文化研究紀要』第一四号に発表している。


 昭和戦後の東予西部の町村誌

 戦後、今治市をはじめ、越智郡の地方の町村は、いずれも町誌を出版した。しかし越智郡の島方の方は、早く町誌を出したところもあるが、目下編纂中の町村もあり、遅れている。
 (1)昭和三六年に、『亀岡村誌』(菊間町に合併)A5判五六五頁が、山中貞一篇で発行された。(2)昭和四三年に、『波方町誌』A5判七三三頁が、森光繁編で出版された。(3)昭和四五年に、『伊予岩城島の歴史』B6判二七六頁(4)昭和四六年に、『続伊予岩城島の歴史』B6判五三八頁が、森本繁篇によって発行されている。(5)昭和四六年に、『吉海町史』B6判六四二頁が、編者矢野勝明・丹下辰郎らにより、町役場より発行された。(6)同年、森本正勝篇で、『いきなじまというところ』B6判四五四頁が出版された。明治二一年の岩城との合併問題、昭和三一年の因島との合併問題など参考になる。(7)昭和四九年には、藤原道一篇『愛媛県上浦町誌』A5判五六九頁が、町から出版されている。(8)同年、今治市は渡辺達矩篇で、『新今治市誌』A5判横一〇五九頁を発行している。(9)昭和五二年に、『大西町誌』(近藤福太郎)A5判六三四頁が町教育委員会から発行された。(10)昭和五四年には、菊間町誌』A5判横一一一〇頁が、町長名で発行されている。巻末の年表・民俗・米価・言語生活・戦死者など史料が豊富である。(11)昭和五九年には、『玉川町誌』A5判一二七五頁が出た。巻末に明治一三年の「越智郡地誌」のうち玉川町区域の旧村二〇か村の記事を載せており、特色がある。(12)昭和六一年に、『朝倉村誌』上巻A5判一〇六六頁、下巻A5判一〇六九~一八一〇頁が出版された。下巻の巻末に一四九頁を「ホノギ」(小字地名)にさいており、特色がある。(13)昭和六一年に『弓削町誌』A5判一三八四頁が出版された。年表がよくできている。
          

 愛媛の地誌の系譜

 明治時代の地誌には伊予温故録型と、明治四三年県が指示した郷土誌型とがある。戦後の市町村誌にも明治末期の郷土誌の項目踏襲しているものが多い。二宮書店発行の日本地誌(青野・尾留川編)が、新しい科学的地誌の型を示している。