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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 今治市の酪農

 酪農のはじまり

 今治地方は藩政時代から牛馬の名産地として知られており、数々の名馬を産したと言われている。明治時代に入っても牛馬の飼養頭数は多く、明治四四年(一九一一)には、当時の越智郡長であった片野淑人等の尽力により越智郡牛馬組合が設立された(表6―21)。当時の農家は、主として使役用に一戸当たり一頭は牡牛を飼養していたが、牝牛(乳牛)は飼料平生乳の販売の点で敬遠されていた。こうしたことから乳牛は、搾乳業者に預託され飼養される程度で、牛乳の利用も主に乳幼児の哺乳用又は病人の薬餌用であった。
 今治地方に本格的に酪農が導入されたのは、第二次世界大戦後のことである。昭和二二年越智郡富田村の村長に就任した砂原鶴松は、農家が狭い耕地に依存する米麦中心の農業を改める必要性を説いた。そして、作業が年間を通して平均しており、収入を常時得ることができ、しかも将来性のある殖産事業として、「水田酪農」を積極的に推進した。当時、水田地域において稲藁と野菜、裏作々物を利用して小規模に乳牛を飼養する形態の「水田酪農」写真2―10は成り立たないとするのが一般的な考えであった。しかし、砂原は岡山県での水田耕作を基盤とした酪農経営等を学び、富田村の水田地域でも乳牛飼養は可能であることを強く主張した。
 こうした努力が実って、二二年村内の一五名の同志(砂原鶴松・河上秀次郎・近藤見幸・青井武行・青井雅一・越智満信・正岡新太郎・越智宇吉・越智政一・河上鬼太郎・大沢弥吉・渡辺文吉・塚本好一・井上潔・麻生虎逸)らとともに酪農組合を設立する準備に入った。翌年富田村を中心として、広く河南地方(蒼社川以南の地域をさす)の酪農希望者を募り、五〇名の有志とともに河南酪農組合を結成した。同組合では、乳牛五〇頭を北海道から導入し、富田村上徳に生乳共同処理場を作り、牛乳の販売を始めた。鉄道の便にも恵まれ、市乳として今治のほか新居浜方面へも送られた。乳牛飼養の動きは、酪農経営が軌道に乗り始めるとともに今治地方全体に波及し、昭和二五年には一〇〇頭に達した。


 河南酪農から愛媛酪農へ

 二六年には組合員は八一名となり、乳牛飼養頭数も一三〇頭に達した。こうした状況の中で、組合組織を確立する必要があったため、同年一二月農業協同組合法に基づいて、「河南酪農農業協同組合」に組織を改めた。組合員は砂原組合長を中心に強固に団結し、組合員自身の手によって、飼育、搾乳、加工、販売を行った。中間業者を省いて生産者と消費者が直結することにより、両者の利益は増大することを証明した。これらの成果は広く知れわたり、組合員は今治市・越智郡全域から他の市郡にもまたがるようになり、乳牛飼養頭数も増加していった。三二年には砥部開拓酪農組合・伊予酪農組合・歌仙酪農組合・三三年には川之江酪農組合・宇摩酪農組合連合会・西条酪農組合・三五年には新居浜酪農組合を吸収合併した。組合組織は著しく発展し、県下の酪農組織に与える影響も大きくなった。この間、販路拡大のための努力も、各方面に対して継続的に行われており、その結果、三三年にはこの地方で初めて富田小学校で生ミルクを利用した学校給食が行われた。また、その後、鴨部小学校など数校でも生ミルクを利用した給食が行われた。
 三五年に新居浜酪農協同組合を吸収合併するに及んで、「河南酪農協同組合」の名称が不適当であるとする意見が多く出されるようになり、同年六月に「愛媛酪農農業協同組合」と改称した。組合長として、終始一貫して酪農家及び組合の啓蒙や販路拡大に情熱を傾けてきた砂原鶴松が同年一二月に病没したが、愛媛酪農協では、同氏の偉大な功績をたたえるために、翌年四月に組合ゆかりの地である今治市上徳に顕彰碑を建立し、遺徳を後世に伝えている。顕彰碑には次のように記されている。

砂原氏は…(中略)…県下に魁けて農村の機械化乳牛の導入等農業経営に顕著なる成果を収めたのであるが特に日本農業に一大転換期の来たるを予見し将来の農村に酪農の重要なるを痛感し二二年河南酪農を提唱…(後略)

 愛媛酪農協結成後も組織の拡大は継続し、三六年には松山市の勝山酪農組合を吸収合併するとともに、飲料乳生産工場を松山市に開設した。また、三七年には今治市鳥生に三五二四坪の土地を求め、粉乳製造の設備を有する綜合工場を建設し、一層の発展に対応できるように整備された。組合組織の拡大に伴って、組合員の数も三〇年代の後半には一八〇〇人に達し、生乳生産量は八~九〇〇〇トンに増加した(表2―22)。
      

 酪農の現状

 本県の酪農経営は、全県的に三〇年代後半に最も多く生産者がいた。その後、四〇年代前半には漸減し、さらに後半に激減し、多頭飼養に変化していった傾向が見られるが、このことは愛媛酪農協の場合についても言えることである。四三年の生産戸数は四九五戸であったが、五〇年には二一四戸に減少した。しかし、乳牛頭数は三〇〇〇~三五〇〇頭で推移している。このため、一戸当たりの飼養頭数は四三年の四・〇頭から六〇年には二二・六頭に大幅に増加している。また、飼養・搾乳技術の向上もあって生乳生産量は漸増している。
 今治市内における乳牛飼養も、ほぼこれと同様の傾向で推移している。三五年には飼養戸数は三六〇戸(乳牛六五二頭)であったが、四五年にはわずか六〇戸(同五九三頭)に減少している(表2―23)。これは、副業的酪農経営が減少し、専業的酪農経営による多頭飼養に移っていったことを示している。このような状況の中で、酪農経営者の利益を保護し、安定した経営を行うことを目的に、四〇年に県下の酪農組織が合同して愛媛県酪農業協同組合連合会(県酪連)が設立された。
 三〇年代には、酪農を営む農家は市内全域に拡がっていたが、現在では立花・富田・桜井・清水地区に限定されており、その内の半数以上は富田地区である。水田酪農の伝統は今なお引き継がれており、水田を利用して、春まき作物(ソルゴー、飼料用とうもろこしなど)と秋まき作物(イタリアン、飼料麦、飼料かぶなど)に水稲栽培(主として稲わらを利用)を組み合わせた高度な輪作形態をとっており、自給飼料を中心に乳牛飼育を行っている。自給飼料が不足する場合には、ミカンや筍の皮、ジュース粕、おから等を多用し、配合飼料を少なくするよう努めている。このため、今治市では乳飼比(乳代金に占める購入飼料代金の割合)は比較的低く、酪農経営の安定に大きく貢献している。


 愛媛県酪農業協同組合連合会及び四国乳業

 昭和三〇年代の後半以後、我が国の経済構造は急速に変化していった。このような状況の中で、酪農経営者の間には、県下の酪農組合を連合した組織を作ることにより、県や国との関係を密にし、一層の発展を図ろうとする機運が起こってきた。その結果、県下の生産牛乳の共同販売体制を確立し、積極的に酪農事業の推進を図ることを目的として、四〇年一〇月に、愛媛県信用農業協同組合連合会・同経済農業協同組合連合会・同共済農業協同組合連合会及び九つの酪農関係組合(愛媛・南予・喜多酪農協と城川町・野村町・宇和町・北条市農協及び中島・温泉青果農協)によって、愛媛県酪農業協同組合連合会(県酪連)が設立された。そして、四二年には生産者団体の機能強化を図るために、各単位組合が実施していた生産指導、処理加工及び製品の販売事業を県酪連に事業統合した。この結果、名実ともに県下の酪農、乳業事業は一体化され、生産団体による生産・集乳・処理・加工・販売の一貫体制が確立した。五八年には売上高は二四四億円に達するなど、四国地域における唯一の農協プラントとして生乳の需給安定に努めている。なお、県酪連の製造部門は四国乳業に業務委託している。
 四国乳業は、四国地方における生乳の流通調整と、生産者の立場を向上さすことを目的に、県及び県酪連、全酪連等によって四三年に設立された。その後、四六年には高知四国乳業と合併し、四七年には香川乳業と合併した。現在、四国乳業は今治工場(写真2―11)、松山工場・宇和島工場・高知工場・坂出工場の五工場を持っている。五八年には処理乳量は約九万トン、売上高は二〇三億円に達し、四国における農協プラントとして着実な歩みを続けている。なお、四国乳業の営業部門は県酪連に業務委託している。

表2-21 今治市の酪農関係年表

表2-21 今治市の酪農関係年表


表2-22 愛媛酪農農業協同組合の推移

表2-22 愛媛酪農農業協同組合の推移


表2-23 今治市の地区別乳牛飼養の推移

表2-23 今治市の地区別乳牛飼養の推移