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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

八 波止浜塩田の盛衰

 塩田築造

 波止浜塩田については森光繁(一八九一~一九七六)が『我が郷土』・『波止浜塩業史』・『なみかた誌』などに研究し発表している。塩田築造当時のことは『松山叢談第五上』に次の如く書かれている。

伊予国野間郡波止浜開発略記に云、伊予の国野間郡箱崎の基礎に於て来島の南方に当り浅き大湾あり箱潟と称す。周囲凡三里余、彼の干潟の浦は此裡に在り。延宝九年(一六八一)酉二月野間郡波方村の浦手役の長谷九兵衛義秀と云者、彼の箱潟の一隅なる波方村の内、字長谷の海岸より〔此処に当時ニ―三戸の漁家あり。今の波止浜市街の在る処也〕向ふ高部村下まで堤防を築き、塩田を開発せんことを。郡奉行兼代官園田藤太夫成連に依て、松山の城主定直公に請願す。公之を嘉し天和二年(一六八二)六月塩田方法聞合せのため長谷部義秀をして、芸州竹原に赴かしむ。時に世尚ほ未だ開けず、食塩製造は芸州の秘法にして之を他国に洩さざりし、然れども義秀力を盡し遂に其方法を詳にして帰る。於茲同年九月定直公義秀の願を公許せらる。同十二月義秀人夫を請ひ、即ち公より野間越智桑村の諸郡に達し、此工事を加勢せしむ。天和三年亥正月十一日甫めて着手、此時に当て定直公、園田成運をして一切の事務を担理せしむ。彼即ち長谷部義秀をして北方の工を司らしめ、野間郡波方村字元〆の人、佐賀無左ヱ門をして南方の工を司らしむ。其工夫は南北合せて一〇八三人なり。同年三月九日土手築留竣る。此日生牛一頭を埋め、其の上に松を植え汐留の松と称す。其時に当て定直公里正のため、菊間村長野某を食塩問屋のため松山の人某を移住せしめ、その他寺院を新築し、山伏を置き当時必要の者悉く催えられたり。其後数年にして人家増殖せり、園田氏奉職中竣工の塩田は三三軒也、其後貞享四年より元禄四年まで林源太兵衛氏奉行奉職中、竣工の塩田一〇軒也。塩田の周囲に多く新田成る。波止浜・波方村・樋の口村・高部村に属す 云々。

 
 波止浜塩田の三人の功労者

 波止浜塩田の築造については、長谷部九兵衛の功労があった。その後生産過剰で十州塩田会の三八式休浜制限時代には大沢常右衛門が活躍した。昭和の技術革新や塩業整備には原真十郎が貢献している。
 長谷部九兵衛は波止浜塩田の開祖で、その功績を讃え、今治市波止浜興産㈱の本社の近く、潮止明神の隣に昭和二九年三月、波止浜塩業組合長、原真十郎撰書の記念碑が建てられている。碑文には次のごとくある。

長谷部九郎兵ヱハ波方村ノ浦手役ナリ夙二松山藩内二塩田ノ創設ヲ志シ、単身広島藩竹原二渡り、苦心其秘法ヲ探究シテ帰リ、時ノ代官園田藤太夫ノ協カヲ得テ、筥潟湾内二工ヲ起シ、天和三年三月九日牛一頭ヲ生埋メ、信カヲ以テ始メテ築止ノ難工事ヲ完成セリ、因テ此地二汐止明神ノ小祠ヲ建ツ今ヲ去ル事二百七十年前ナリ、波止浜茲ニ生ル。

 長谷部九兵衛の没年は貞享元年(一六八四)であるが、生年は判かっていない。
 大沢常右衛門は「波止浜塩田の中興の祖」として有名で、昭和三三年四月、日野新十郎撰文で、次のような頌徳碑文が波止浜の竜神社境内に建設された。

大沢常右衛門翁ハ波止浜ノ豪家二生ル、幕末ノ頃塩業苦難二陥ルヤ、翁ハ三八式採鹹法ヲ十州塩田業者二提唱シ之ヲ実施ス、又塩田表土下ヲ翁独創ノ砂層二改造シ年間三万俵(五斗二升入)ノ増産ヲ見ルニ至ル、松山藩其ノ功ヲ賞シ二塩戸ヲ賜フ、清廉ノ翁ハ十六番浜ヲ波止浜区ニ、三十五番浜ヲ塩田組二贈与セラル、更二赤崎浜大浦浜ノ塩田ヲ築造スル等、中興ノ祖トシテ郷党永遠二翁ノ恩恵二浴ス、依テ茲二建碑シ功徳ヲ讃仰ス。

 三八式とは三月から八月まで稼働し、九月から三月までは冬季で日照時間も少なく採算もとれないので休業する計画である。十州とは瀬戸内海の製塩業の盛んな次の一〇州を指す。播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門・阿波・讃岐・伊予の一〇か国である。
 原真十郎は波止浜塩業の最後の功労者で、彼の友人の安倍能成の撰文の碑が、要約して彼を次のように紹介している。

原真十郎君ハ明治十五年武一郎氏ノ四男トシテ波止浜町二生ル、原家ハ来島水軍ノ武将にして後製塩ヲ業トス、君松山中学二学ビ家情ノ為二大陸雄飛ノ志ヲ収メ、長兄文学博士秀四郎氏ノ没後家ヲ嗣グ、大正六年町長二就任、爾来郡県町村長会長県会議員等百余ノ公職二就キ、地方自治体ノ進展二貢献スルコト三十年、凡ソ地方ノ教育文化厚生経済産業交通観光ノ諸施設ニシテ君二俟タザルモノナク、治績抜群全国自治行政ノ上二輝ク、中ニモ国鉄予讃線ノ波止浜迂回、公園ノ開設、小島砲台跡ノ払下ニヨル国立公園ノ提唱等二至ッテハ、皆君ノ卓見ト熱意ニヨッテ始メテ其実現ヲ見タルモノナリ、
君又塩業二力ヲ尽クシ、昭和十七年業界二率先、塩田ノ統合ニヨル採鹹煎熬ノ一貫経営方式ヲ採リ、尚真空式工場ノ建設、桜井海浜二新塩田ノ築造ヲ遂ゲ、更二昭和三十一年従来ノ入浜式ヲ悉ク流下式塩田二転換シ、天和創業以来ノ旧態ヲ脱却ス、当局深ク之ヲ推賞シ、全国ノ業者亦コノ範二彷フ、是全ク君ノ達識ト石心銕腸ノ賜ナリ、君表彰二与カルコト数次、叙勲六等藍綬褒章授与ノ栄典二浴ス、如斯生涯ヲ地方公共ノ業二捧ゲテ悔イズ、町民ノ敬慕今二絶ユルコトナシ、茲二郷党業者相諏リテ像ヲ造り石二勒シテ永ク君ノ功績ヲ鑽仰スルノ挙アリ、余亦同窓ノ誼ニヨリ文ヲ撰シテコノ欣ヲ共ニセントス。

 昭和三二年七月に、肖像と銘が波止浜公園に建立された。安倍能成と原真十郎とは、県立松山中学校時代の同級生であった。


 波止浜塩田の所有者

 元禄末斯の『野間郡郷帖』によれば、波止浜塩田の所有者の名が次の如く記されている。地元だけでなく、松山・周桑のほか讃岐や安芸の人もいる。藩の援助で開発し経営も保護されたが、民営である点が特色である。

(1)波止町の新四郎 (2)野間郡神宮村の彦左衛門 (3)松山の南松前町古川の善兵ヱ (4)波止町天野屋の助次郎 (5) 波止町の与兵衛 (6)松山南松前町の古川宗暦 (7)和気郡浜 (8)越智郡浜 (9)松山本町三丁目の油屋吉右衛門 (10)菊間浜村の半左衛門 (11)大井新町村の清右ヱ門 (12)菊間浜村の治兵衛 (13)浮穴郡浜 (14)松山大唐人町の神谷小右衛門 (15)松山松前町の古川彦左衛門 (16)周布郡田野村の彦兵衛 (17)風早郡浜 (18)波止町の久左衛門 (19)風早郡北条町の三津屋次右衛門 (20)同所の布屋乙右衛門 (21)同布屋藤兵衛 (22)波止町の甚太夫 (23)桑村郡浜 (24)讃岐観音寺の亀屋太郎左衛門 (25)周布郡浜 (26)野間郡浜 (27)松山松前町の豊後屋宗閑 (28)波止町の八郎右衛門 (29)周布郡願蓮寺村の武兵衛 菊間村の金兵衛 新居郡金子村の源次郎 芸州宮島の三郎右衛門 桑村郡小田村(古田村?)十郎右衛門 以上三三浜ある。

 表2―26は日本の塩が専売制になる以前の統計である。波止浜塩田は、多喜浜・東伯方村に次いで大きい面積で、一町歩当たり生産高は東伯方村に次いで成績がよい。この表によると波止浜村の塩田は明治三六年(一九〇三)には、面積六三町九反歩である。塩の生産高は八万二一五〇石で、東伯方村に次いで多く、多喜浜村の六万九六八四石を凌いでいる。釜数は四三で、多喜浜村の五二釜に次ぎ、東伯方村の三五釜より多い。一釜当たりの塩の生産高は、地方よりも島方の方が多い。


 波止浜塩田の増築

 表2―27は波止浜塩田の竣工年次の一覧表である。波止浜塩田は入浜塩田としては、愛媛県で最も古い。もっとも揚浜塩田は、弓削島に中世に既に造られていた。天和三年は西紀一六八三年で、この年三三浜が竣工した。松山藩の代官は園田藤太夫で郡奉行を兼ねていた。彼は松山藩の馬回りであったが、野間郡奉行に命ぜられるや、長谷部九兵衛の企画に早くから共鳴し、常に督励援助し、成功に導いたといわれている。
 松山藩ではその後も塩田増築に力を入れた。貞享二年(一六八五)園田藤太夫に代わった後任の林源太兵衛代官は、同四年金子堀に四軒、元禄四年(一六九一)に赤崎に六軒分の塩田を築き、合計四三軒になった。
 その後六〇年、宝暦二年(一七五二)に至り、反別に大小不釣合があるので、整理廃合を行った。即ち①地堀横堀の九軒分を八軒分(自一番至八番)に、②本川堀の一五軒分を一二軒分(自九番至二〇番)に、③中堀の九軒分を七軒分(自二一番至二七番)に、④赤崎の六軒分を五軒分にした。浜数を改めて三六軒分にした。
 なお整理した年を、森光繁著の『我が郷土』には、宝暦二年(一七五二)としているのに対して、森光繁著の『波止浜塩業史』の九七頁の表には、宝永二年(一七〇五)とも寛永二年(一六二五)とも記している。私は宝暦二年の方が正しいと思う。


 塩田所有者の変遷

 表2―28によって、天和三年(一六八三)に波止浜塩田三三浜を開発した当時の塩田所有者の住所を調べてみると次の如くである。興味のあるのは松山藩領の郡浜が七つもあることである。塩田開発にこれらの郡の人々が工事を手伝ったのか、それともこれらの郡に塩を配分するためなのか、今のところ研究不充分で私には判からない。
 次に波止町の所有者が六浜、松山の松前町や本町や大唐人町の所有者が六浜、野間郡の新宮や菊間の浜村などが五浜、北条町の所有者が三人、周布郡の田野と願蓮寺の所有者が二人、桑村郡の小田村が一人。桑村郡に小田村はないので古田村の誤りであろう。その他新居郡金子村と芸州宮島と讃州観音寺が各一人である。塩田を経営するからには資産家であったに違いない。
 一二〇年後の享和三年(一八〇三)になると、塩田経営者は次々と変わり、兼併が行われている。表2―28の如く渡辺政右衛門が七浜も所有し、村山永蔵が六浜、河内屋が六浜も所有し、顔ぶれが全部変わっている。
 昭和一三年になると、ほとんどが波止浜在住の人の所有になっている。
 戦後の昭和二五年に至る僅か一二年間でも所有者が随分変わっている。でも大半は地元の人の所有である。そのため一〇年後、塩田廃止にあたっては、各人がまとまり、早く廃止に踏み切り、波止浜興産㈱となって、今日に至っている。


 波止浜の塩業整備

 昭和一三年六月に真空式機械工場の建設に着手した(写真2―14)。同一七年に砂層貫流式塩田に着工し、同一八年に完成した(口絵参照)。
 昭和二五年一一月二三日、八番・三三番・三七番の三浜を流下式改良に着手し、翌年六月完成した。同二七年六月に、六番・七番・二一番の三浜を流下式に改造した。同二八年に二番・三番・四番の三浜を流下式に改造した。
 昭和二九年三月、二六番・二七番の二浜を流下式に改造した。六月には二二番・二三番の二浜を改造。二四番。二五番の一部に枝条架を設置した。三二番・三六番を一セットにし、三四番と三五番を一セットにし、二八番・二九番を一セットとして着工した。同三〇年に三〇番・三一番を一セットとして改造した。同三一年四月に、一二番・一四番を一セットとして完成した。九月に四〇番・三九番を一セットに、九番・一〇番・一一番を一セットとして完成した。
 昭和三四年一一月波止浜塩業組合は、塩業整備臨時措置法の適用を受け、塩製造を廃止し、組合を解散した(図2―21)。


 廃止塩田の跡地利用

 波止浜の塩田は昭和三四年、第三次塩業整備に よる「塩業整備臨時措置法」の適用を受け、同年一一月塩の製造を廃止し、塩業組合を解散した。
 廃止後は、全塩業者を株主とする波止浜興産㈱へ、全塩田跡を統合し、住宅地、工場地帯に区画分譲して、新市街地を造成すると共に、自動車教習所、ゴルフ練習場の経営をして、波止浜町の振興に寄与している。

廃止塩田でも、(1)番浜は特別で、すでに大正七年(一九一八)一〇月に塩田を潰して、波止浜小学校の敷地として今日に至っている。
(2)番浜以下は現在次の如く利用している。(2)番浜は愛媛相互銀行波止浜支店、波止浜郵便局、波止浜農協、歯科医院などに使用されている。
(3)番浜は波止浜虎岳幼稚園、久保内科病院、マンション、波止浜スーパーの敷地である。
(4)番浜と(5)番浜は住宅地になっている。
(6)番浜は波止浜内科病院、ガソリンスタンドなどになっている。
(7)番浜は渦潮電機、(8)番浜は東邦相互の敷地である。
(9)番浜から(20)番浜までが、波止浜興産ゴルフセンターで、うち(12)番浜と(13)番浜が、波止浜興産自動車教習所である。
(21)番浜は住宅地、(22)番浜は公園と集会所になっている。
(23)番浜から(26)番浜までは住宅街である。
(27)番浜は伊予造材㈱の敷地で、木材置場である。
(28)番浜はハッピイプラザ商店街で、波止浜スーパーマーケットなっている。本屋・肉屋・電気屋・喫茶店・そば吉の特異な建物などがある。
(29)番浜(30)番浜は住宅地分譲地である。
(31)番浜はポンプ場で、レクリエーション広場、テニスコートがある。
(32)番浜と(33)番浜は住宅地、(34)番浜は愛塩港湾㈱、波止浜造船のグランドである。
(35)番浜にはパチンコ店があり、(36)番浜は波止浜造船の下請工場敷地である。
(37)番浜は波止浜造船事務所、(38)番浜は戦時中に波止浜造船の敷地となった。
(39)番浜と(40)番浜は波止浜興産の本店の敷地であり、(40)番浜にはガソリンスタンドがある。
(41)番浜は(38)番浜とともに、昭和一七年伊予木鉄造船所が、昭和一八年に波止浜造船敷地となった。
(42)番浜には真空式製塩工場があった。

表2-26 愛媛県の町村別塩生産高(明治36)

表2-26 愛媛県の町村別塩生産高(明治36)


表2-27 波止浜塩田の竣工年次一覧表

表2-27 波止浜塩田の竣工年次一覧表


表2-28 波止浜塩田の所有者の変遷

表2-28 波止浜塩田の所有者の変遷


図2-21 廃止当時の波止浜塩田の図(昭和34年)

図2-21 廃止当時の波止浜塩田の図(昭和34年)