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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 今治市の商店街

 商店街の形成とその要因

 藩政時代は、農と商工は分地分業で、商工業を営むものは城下の町内と拝志(現在の富田小学校の校区内)の二か所に限定され、その他では許されなかった。城下の町内でも郭内の士族屋敷での商業を許さず、室屋町・米屋町・鍛治屋町・本町・風早町・塩屋町・中浜町・片原町の旧八町のみを商工区とした。糀屋は室屋町、米屋は米屋町、鍛冶屋は米屋町の一部の鍛冶屋町、塩屋は風早町の一部の塩屋町など町名が示すように、一町同種の商店街、職人町とした。
 明治五年(一八七二)、全国民等しく生業の自由を認められたので、商店の数は増加した。まず旧士族屋敷のあった郭内と旧八町との境の川岸端は、本町一丁目との角からドンドビに向かって、いわゆる川岸端商店街・常盤町商店街ができていった。ここは、市街のほぼ中央で、山人道(竜岡・鈍川方面)、西条道(桜井・周桑方面)からの客がドンドビを経て今治町内に入るところにもあたり、また、新町を経て港に通じていたので、新しい商店街として発展した。
 乗合馬車・乗合自動車の発達、島しょ部との渡海船、寄港する大小客船の発達(大正九年から昭和九年におよぶ築港の完成)、国鉄の開通(大正一三年)、繊維産業の発達、市街地の拡大などにより、新町(現在の常盤町一丁目)、川岸端の延長の常盤町(現在の常盤町二丁目の南半分、三・四丁目)、柳町(現在の旭町一丁目)、旭町(現在の二・三丁目)、国鉄駅前、金星町筋(現在の常盤町一~二丁目南の金星川沿いの裏通り)、港町筋(現在の広小路と並行する北側の通りで片原町一・二丁目と別宮町一・二丁目境の東西の通り)、北新町(現在の本町六丁目付近で旧波止浜街道沿い)などに商店街ができた。
 昭和二〇年八月五日の戦災により、主要商店街は焼失した。焼失をまぬがれた北新町・慶応町(本町五~八丁目、常盤町五・七・八丁目)、榎町(立花・朝倉への出入口)、鳥生本通り(喜田村・桜井方面の出入口)などが一時的ににぎわった。戦災復興後の特色は、新町と川岸端が一直線の商店街になったため、港務所からドンドビ、今治駅方面への通行路として利用され、戦前の繁華街本町商店街と対等の商店街となり、川岸端商店街は今治銀座と名乗った(図2―28)。
 昭和三〇年代に入り、自動車による買物客が増加したため、自動車通行のできない銀座商店街に対し、それの可能な本町商店街が有利になった。また本町商店街は道幅が広く、両側に駐車スペースのある広小路をはさみ、広小路と本町との交差する南西角には中型の大洋デパート(三七年開店、四八年今治大丸開店にともない五二年閉店)と、すべての郊外・市内バスの停車する停留所をもっている上、越智郡の島しょ部の客の上陸する港に近いので、再び戦前の地位をとりもどした。
 しかし、拡大した市街地のほぼ中央にあたる旭町一丁目とドンドビ交差点、大正町一丁目に四七~五一年にかけて四つの大規模小売店が出現し、陸地部の客はこれら大型店に足止めされがちになり、また島しょ上部から港に上陸した客が港から大型店までの一直線の常盤町筋を通り、大型店まで足を進める傾向か強くなり、再び常盤町筋の客が増加した。この傾向を助長した要因として、四六年の大型フェリー基地着工にともなう渡海船の船着場が天保山を経て内港へ移ったこと、相前後して就航したフェリーボート・水中翼船・高速艇などの基地が順次港湾ビル(四二年完成)寄りに移っていったこと、渡海船の数がこの一五年間で三分の一に減り、一七隻とたったことなどがあげられる。

        
 今治市の商業

 昭和五七年の今治市の商業の実態は、卸売業五七七に対し、小売業二三四九である。卸売業は機械・器具卸売業の一一六をトップに食料・飲料卸売業七七、建築材料卸売業七三が続いている。卸売業者の多くは、島しょ部からの渡海船船着場・青果市場のあった片原町二・三丁目および片原町に近い港町一・二・三丁目、内港岸の恵比須町に多い。
 小売業で一番多いのは飲食料品小売業で、菓子・パンの二一一、酒・調味料の一五七、各種食料品の一三七など合計九一三店におよんでいる。次いで、医薬品・化粧品の一四四や燃料の一〇三などが目立つその他の小売業の七〇三店である。三番目は婦人・子供服の一〇七、呉服・服地・寝具の八九などの織物・衣服・身の回り品小売業の三七二店である。
 今治市の小売商業の特色は、各種商品、衣料身の回り品、文化品小売業の販売額が著しく高い比率を持っており、松山市とならんでファッションと文化の分野に基本的な機能を備えた典型的買い回り商業としての性格下にあるといえる。また、県民一人当たりの小売販売額を一〇〇としたときの今治市の市民一人当たりのそれは一二二・五(昭和五四年)となり、小売商業中心都市といえる。
 校区別商業の実態を総数でみると(昭和五四年)、商店数、販売額のベスト三は今治、美須賀、日吉の各校区で、いずれも中心商店街や駅前、街道沿い商店街を包含する校区である。飲食店を除く小売業のベスト五は、商店数では美須賀・今治・常盤・日吉・波止浜であるが、年間販売額では、今治・日吉・美須賀・常盤・富田の順となる。


 中心商店街の特色

 今治市の中心商店街は、港から市役所を結ぶ東西の常盤町一~三丁目(幅員一二m、延長六三〇m)である。通称新町、川岸端、今治銀座、ドンドビなどと呼ばれている。この東西の線にT字型で南北に、本町一~四丁目が形成され、幅員一二m、延長四六〇mである。
 銀座商店街は、明治維新以後、急速に発展した川岸端からドンドビに至る一三四店からなる商店街で、商店密度は八八・二%と最も高く、業種構成では衣料品の四四・八%をトップに文化品二三・一%が多く、ファッションと文化教養娯楽品を中心とした買い回りセンター的性格を有している(表2―47)。昭和五三年の通行量調査では、五〇〇〇人以上の通行量のあった四地点のうち三地点が常盤町三丁目にあり、市内最大の中心商店街であることを示している。これは集客力の大きな今ショッピングプラザ(ニチイ)と今治大丸・今治ショッパーズプラザ(ダイエー)の中継地域に位置するためである。なお、五六年春に今治銀座商店街のうち本町一丁目角から栄町一丁目角までの一八四mに近代的な全蓋式アーケードとカラー舗装を完成させ、東予で最も明るくファッション性に富んだ商店街となっている(写真2―21)。
 新町商店街は、今治の海の玄関今治港に接し、みやげ物や菓子、喫茶、鮮魚、かまぼこ等の飲・食料品店が圧倒的に多く、衣料品店の多い今治の中心商店街にあってきわめて特色ある商店街を形成している。 
 本町商店街は、慶長八年(一六〇三)藤堂高虎の今治町割以来の中心商店街で、呉服町といわれるほど呉服屋が多かった(写真2―22)。今でもその名残りはみられ一〇六店のうち衣料品店が四一・五%を占め、文化品店二五・五%、最寄品店一四・二%が続く。今治呉服商人が顧客への感謝の気持ちを込めて催す「えびすぎれ」は、明治五年(一八七二)に本町の呉服商広屋(現在の廣屋寝具店・神村人形店)の用助という人が、大阪の奉公時代に見聞した「今宮えびす」を今治に移したものといわれている。旧暦正月一〇日だけの催しで始まったが、人気が高まるとともに二日、三日と日程が広がり、近年は旧正月一〇日を軸に四日間となった。さらに一一一年目の昭和五七年からは顧客本位に四日間には土・日曜日を入れて催すこととなった。今治市民はもちろん越智郡島しょ部・陸地部を中心に東予一円から広島県島しょ部や松山からもファンが来るという催しになっており、期間中、一〇万人近い人出でにぎわいをみせ、今治市の中心商店街あげての一大行事となっている。本町一丁目は全蓋式アーケードが設置され、広小路より北の二・三丁目も片蓋式アーケードが設置されている。また、一・二丁目は防災建築区造成組合を結成し、三~四階の近代的共同店舗ビルに改築されている(図2―28参照)。
 昭和四三年の町名改正で港町名を使わぬようになったが、人々は今もなお港町と呼んでいるのが、本町・風早・中浜・片原町の旧四町の二丁目と三丁目の間の本町より海岸に向かう通りである。ここは日用雑貨や食料品の問屋が多く、渡海船による仕入れ客を中心に午前中に人通りがやや多い。しかし、フェリー時代になってその基地が新町方面に移り、最近、港町かいわいのにぎわいは影をひそめつつある。


 大型店・スーパーの進出

 今治地区に売場面積一五〇〇平方m以上の第一種大規模小売店舗(大型店)が出現したのは昭和三三年、大正町一丁目の広小路角への今治センター(バスターミナルと一六五七平方mの売場面積)である。ついで、三七年に本町一丁目と広小路角に売場面積四七二〇平方mの大洋デパートが開店した。その後、市内と越智郡全域および周桑平野の消費人口を背景に、四七年にはフジ今治店(共栄町三丁目、二六五〇平方m)、今治ショッパーズプラザ(ダイエー、旭町一丁目、七〇〇〇平方m)、四八年にはドンドビ交差点南角に、従来の本町店と合わせた大洋デパート(後今治大丸と改め、九二八九平方m)、四九年には今治センターは瀬戸内バスと高島屋の参加により「せとうち高島屋」(五一年からは今治高島屋)と改めて八五一二平方mで再出発した。そして、五一年に今治高島屋の東隣りに今治ショッピングデパート(ニチイ今治店、七八七八平方m)が進出し、全国有数の流通激戦地今治となった(写真2―23)。その背景には商業後背地の狭さや造船、繊維などの地場産業の不振、さらに郊外各地に二種店舗(五〇〇~一五〇○平方m)や基準面積以下の中小スーパーの進出などがあげられる(表2―48)。こうした状況下、五九年六月には今治で最初の大型店としてスタートした今治高島屋が閉店し、すでに五二年に閉店している大洋デパート本町店跡とともに跡地利用が重要課題となっている。このように今治の商業の中心地は本町→新町・川岸端(常盤町)→大型店の集中する大正町からドンドビ・旭町に移動した。マイカー時代に合わせて大型店は、大型の駐車スペースを確保してさらに顧客の吸引力を強めようとしており、この中心地移動はさらに強まると思われる。

          
 周辺商店街の盛衰
          
 今治市街地の北の出入口に位置し、近見・波止浜・波方方面の顧客を対象に繁栄した本町四~六丁目の商店街は、昭和二八年の国体道路の開通にともない、主流がその沿線へ移るにしたがって徐々に衰退のきざしをみた。国道一九六号と国鉄予讃本線の交わる宮下町付近も鉄道利用者の多かった時代には、今治の西の出入口の一つとしてにぎわったが、北側に浅川が流れ、自動車の通行量が増して道幅がせまくなり、利用客は減少した。むしろ乃万の中心地延喜がにぎわっている。
 玉川町へ延びる国道三一七号沿いの、常盤町四丁目から八丁目さらに片山・小泉にかけての発展はめざましく、最近は中小スーパー、パチンコ店、自動車関係店、園芸店などの立地が目立っている。今治市街の南を流れる蒼社川を渡る郷橋・榎橋・蒼社橋などの橋の両端に商店の集中がみられる。なかでも榎橋南の河南町を通る県道今治丹原線や、蒼社橋南の国道一九六号沿いの鳥生から喜田村にかけては、国道三一七号沿いと同様の発展をみている。
 新興商店街としては、新興の桜井団地・唐子台団地・五十嵐台団地の団地内やその周辺に、また、波止浜塩田跡地などに中小スーパーや共同店舗を核に商店街の形成がみられる。

図2-28 今治市の中心商店街と商店の業種構成

図2-28 今治市の中心商店街と商店の業種構成


表2-47 今治市の中心商店街の業種構成(昭和57年)

表2-47 今治市の中心商店街の業種構成(昭和57年)


表2-48 今治市の大型店・スーパー

表2-48 今治市の大型店・スーパー