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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 桜井の椀舟と月賦販売

 行商の類型

 店舗商業に対して品物を持ち歩いて売るという行商には次の三つのタイプがある。 
 一、鮮魚行商などに代表される型で、腐敗しない一日行程の範囲で、市場としての町方や在方に担負行商する。行商品目が変化すると、今治市拝志町の「とおしけんど」や桜井町の「みの・かさ」などの販売となる。徳島県阿部村の「いただき」愛媛県松前町の「おたた」や京都の「大原女」などは女性が頭上に、反物、食品、生花などの商品を乗せて行商し、地方色豊かな風情ともなった。
 舟運を利用するようになると、その販路も拡大し、近代的交通機関を利用すると、「おたた」のように海外にまで進出する。
 温泉郡中島町の「牛船」・「割木(薪)船」長崎県西有家町の「そうめん船」などは、舟運を利用するけれども行商はしない。       
 二、石川県輪島市のように、製造期間の長い高級漆器を応需生産する場合は、生産業者自身が注文取り行商をし、後で納品という方法をとる。生産と販売が一致するので取り扱い品目や行商方法に変化はみられない。近代的取引機構が確立すると行商はやめるが漆器の生産は継続、発展する。
 三、今治市桜井を中心とする行商活動は、副業として発生した地元の行商を伝統的回船活動や、天領地であることを活用して、西日本一帯に拡大させたものである。佐賀県伊万里や唐津の陶器を大阪方面に送り、復路に紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器を仕入れ、九州・四国・中国に行商販売するという仲介販売活動は、後に漆器単一行商となり、地元に漆器の製造を立地させる程に発展する。
 帆船を利用する行商は、近代的流通活動への過渡的な方法であるが、時流にあう行商品目や行商方法、組織を選択し発展して行く(写真2―24)。そして「月賦販売」方式を創始し、全国に広がる近代的月賦百貨店群に発展させたところに特色がある。


 拝志町や桜井町の行商活動の発生

 拝志の「とおしけんど」や桜井の「みの・かさ」等の農具行商は副業としての生産であり、販売であった。
 明和二年(一七六五)の『桜井村指出明細帳』には「田畑の儀は砂地、赤土、浜手は水田所々下汐出申候て難渋の村にて……」とあり、また『国府叢書』には享保二年(一七一七)の拝志町牛馬市及芝居特許のこととして「拝志町近年困窮侯に付、家業も取失候程の儀……」とあって町方の拝志町、準町方の桜井村共に経済的困難の中に副業への指向が必然的であったといえる(ちなみに桜井村の宝暦一〇年(一七六〇)反収は〇・八七石であるのに対し、条理の中心松木村では反収一・五石である)。
 そして、この近世の行商活動が瀬戸内海の東西を結び九州を中心とし、中国・四国をも含む広範な帆船行商活動に発展したのは、桜井や島しょ部を中心とする回船活動に支えられるものであった。
 承応三年(一六五四)の桜井村の訴状に「桜井浜出船・入船御番所」とある。また明和二年(一七六五)桜井村と附近五か村が天領になってから、同村に陣屋がおかれたが、『伊予国越智郡村々様子大概書』に天領一八か村の年貢米が桜井村から別子銅山へ積み出されたとあるように、これらの航海運送活動が回船問屋の発生をうながし、黒江の漆器や、伊万里・唐津の陶器の商品を知りそれを仲介行商するようになったものである。
 文政十年(一八二七)には「廻船問屋連中」油屋藤作外一一名の名が刻まれた鳥居が、同村の綱敷天満宮に奉献されている。


 桜井の陶器・漆器行商の創始

 桜井には「春は唐津、秋は漆器」の里言葉がのこっており、唐津とはその産地名にちなむ陶器の異称である。春は佐賀県唐津や伊万里の陶器を地元の今治や大阪方面に輸送販売し、秋は紀州黒江(和歌山県海南市)の漆器を仕入れて九州方面に行商したことを伝えるものである。そして、天領地桜井の回船活動が親藩である紀州藩及びその支藩西條藩等の便宜供与のもとに行われたとされる。しかし、これらに関する一切の記録は存在しない。そこで傍証となるものを列記して、帆船行商活動発生の時期を推定すると
 一、明和二年(一七六五)の『桜井村指出明細帳』には漆器に関する記録は皆無で、桜井村の船数も漁船三五隻、四枚帆一隻とあるだけだから、この時期前後の発生とは考えられない。
 一、文政四年(一八二一)桜井村綱敷天満宮が豪壮に再建されたが、そこに「廻船中」の燈明台が寄進されており、また、文政一〇年(一八二七)奉献の大鳥居に当浜産子回船世話人の名が記されていることから回船活動があったことが証明される。
 一、天保五年(一八三四)から天保七年(一八三六)にかけて桜井村出身の野村文平外二名の墓が海南市にあり、黒江漆器の仕入れがうかがえる。
 一、天保六年(一八三五)『伊万里歳時記』に出荷先として、「七千五百俵、伊予」とあり、嘉永五年(一八五二)「伊万里陶器屋仲間」と刻した巨大な寄進灯寵が桜井の天満宮にあるが、これらは佐賀県伊万里からの陶器仕入れを証明する。また、明治四年(一八七一)の行商記録『冬降り和城物語』に「桜井へ帰港後、今治へ焼物(陶器)を売りに行く」とあり、以後の継続が証される(写真2―25)。
 一、天保一五年(一八四四)桜井の綱敷天満宮の拝殿玉垣に回船名を記した寄進者は四○名に及び回船活動の盛大さを示している。
 一、串指法という桜井漆器独特の重箱製法が始まったのが天保三年(一八三二)とされる。
 一、当時の桜井村漆器卸商「小谷屋」に明治四年(一八七一)に記した『冬下り和城(宇和島)物語』及び同五年(一八七二)に記した『肥後降り一条有無日記』の絵日記が存在し、帆船行商の実態が詳述されている。
 以上の資料から判断すると陶器・漆器の行商活動は一九世紀に入ってからの文化・文政・天保期からと考えられ、また口伝も文化・文政期としている。


 行商活動の実態

 前記の小谷屋(松木正人)に残る絵日記のうち宇和島での行商記録『冬降り和城物語』は、当時の行商の一端を次のように伝えている。
 一、明治四年一二月一日(以下旧暦)船主一名、水主五名が桜井浜を出帆している。「肥後(熊本県)降り」は七名とあるから、一船乗り組みは六~七名前後である。船主は一名とあり、自分の行商活動を一切記していないのは、在船して荷渡しや、寝食の世話をしたものであり、行商親方(持船主)であることが多かった。『越智郡地誌』(明治一三年)には商船五〇石以上二四隻、五〇石以下八隻とあり、三〇隻をこえる行商船があったことがわかる。
 一、行商期間は六九日で帆走の往路に一二日復路に四日の計一六日かかり、逆風で三日停泊したり、順風では一日三六里も帆走している。純行商期間は五三日であり、行商範囲は、宇和島を中心に岩松や三間の奥地へも行ったことが記録されている。天秤に荷を積んでの行商であった(図2―35)(写真2―26)。
 一、桜井へ帰っても今治や、停泊の伊万里船へ何かを売りに行き儲けたとあり漆器か宇和島地方の特産品か不明であるが、陶器船が入っていたことがわかる。
 次に行商の実態を『肥後降一条有無日記』によってみると次のようである。
 一、七人が乗り組み明治五年二月二二日、桜井河口を出発三月二〇日荷揚とあり往路は一か月に及び、うち一五日間は風待ちの滞留である。又肥後の国では二百余日も船中で過ごすので薄利多売の商売をするとあり、長期の行商で、売子も大正年間を中心とする在方農業兼業者ではなく専業者であったことが知れる。
 一、行程は暴風雨も度々で運を天に任す等と記され、板子一枚に生死をかけた様子がうかがわれる。又、長崎・三池方面へ行く別便や、同業船とも出会ったり、連絡をとったことも記され、瀬戸内海から九州一円をまたにかけた勇壮な商業活動であり、男だての働き者として「桜井男」の俚諺が生まれたゆえんでもある(桜井の漆器行商者は消費地で「椀屋さん」。地元では「船行きさん」と呼ばれ、行商人とは呼んでいない。)。
 一、行商の途中で不知火親方一行の相撲勧進を見物したり、加藤清正墓所へ詣でるなど、異郷での見聞を広め、また各地の景気、銀札相場などの経済変動にも敏感であったことが記されており、前近代的帆船行商で終息させることなく、近代的百貨月賦商活動に発展させていった商人としての視野の広さをみることができる。


 行商の規模、方法、組織

 『地理図誌稿』(明治六年)には桜井の商船五〇石以上二四隻、五〇石以下八隻とあり、「近世漆器を製し、諸国に商う、之を以って生活を為す者多し、一歳商うところ四〇○○円を上下す」と付記されている。又明治一〇年(一八七七)の記録では五〇~二〇〇石が三三隻、それ以下の商船が一六隻とあって五年間に一七隻ふえている。また、前述の熊本・宇和島への行商日記で、別船冲同僚に出合うなど、そのにぎわいの記録も明治五年(一八七二)であることなどにより、帆船による沿岸行商の盛時は明治五年前後と考えられる。その当時の桜井村の行商親方を聞き取り調査した近藤福太郎は、船待親方一九名、それぞれに所属する売子一二三名としている(図2―36)。
 行商日記にもあるように、一船の乗員は六~七人から一〇人ぐらいまでで、使用船は二〇~五〇石であった。今治海運業の始祖ともいわれる飯忠七の自伝に、明治四年大阪行き押切船を一五円で買い、乗員七名木棉五〇反を二〇丸積んで航海したとあり、当時の米価で米三~四石で買えたから小資本でも船持親方になれたのである。その頃の船持親方は船主又は船頭と呼ばれ、他の売子は水主とも呼ばれた。
 行商方法、組織の変化について記すと次のようである。
 一、親方は商品である漆器を調達し、利益として商品原価の三〇%をとり、残りの利潤を売子の能率に応じて分配する「分配当」と、売子が親方に商品原価の三〇%を納め、他は独立採算する「平売」とがあり取引は現金売りであった。『冬降和城物語』では、売子の一人は早く売り切ったので鼻が高かったとか、桜井に帰着した翌日清算をし、その後売子の一人は今治や、入港していた伊万里船へ売りに行ったことなどを記しているから「平売り」の方法であった。
 一、この沿岸行商では内陸行はせいぜい一〇~二〇㎞で効率が悪かったことや、帆船居住では健康管理にも問題があり(日記には売子の一人が病気になり出費が嵩んだとある)又危険性もあったので自然に陸上に拠点を持つようになった。この場合は維持費がかかり難破の危険性もある自家用船でなくても回船業の盛んな波方村や島しょ部の借船でもよく、又汽船、鉄道の利用ができるようになると船主親方は自身行商に参加することなく地元桜井で中間卸問屋を成立させるようになる。
 大阪商船は明治一七年(一八八四)に、日本郵船は翌一八年(一八八五)に設立され、これにともなって瀬戸内海や九州の各船会社の活動も活発となる。また国鉄も山陽本線が明治三四年(一九〇一)までに、九州の主要幹線も明治四四年(一九一一)までに全通し、この行商方法を発展させる条件となった。この変化は大体明治二〇年から明治末期までのものである。なお販売方法は陸地内の農村部を主販売地としたので「掛け売り」と称し現品先渡しで米、麦の収穫に合わせて、春、秋二期に集金をするもので月賦販売の萌芽といえるものであった。一行商組織の員数も帆船による限定がないので二〇名前後に増加した。
 一、次には明治末期から大正初期にかけて「巡廻陳列行商」が行われた。
 行商親方が次第に資本を蓄積してきたのと、鉄道交通や、トラック輸送の発達を背景として、一拠点行商から各市町村を巡回する大規模粗放行商に変質していった(表2―60)。
 その方法は、まず行商集団の先発隊が現地で広告宣伝をしたあと、公会堂・集会所・旅館・寺院等で漆器見本を陳列し注文をとる。次に納品係が現物を配達し、そのあとで集金係が集金して回るというものであった。
 この分業式方法は人手がかさみ行商集団は三〇名前後にふくれあがり、かつての行商親方は、この大集団行商の親方になるか、行商から手を引いて、桜井で仲介卸問屋を経営するようになり、帆船は姿を消してしまった。
 この販売方法への移行は明治三五年前後から明治末期にかけて行われたものであるが、この聞に画期的な集金方法として「購」方式から「月賦」方式が創始されていったのは大きな特色である。行商集団は「商店・商会」の名で呼ばれ、仲介問屋は「各国漆器卸商」のかんばんをかかげた。
 なおこの行商活動の活況に刺激されて、文化・文政期に立地したとされる桜井の漆器生産も製造量が増大し、当然行商量の中に加えられたが、その比率は他産地漆器を加えた総量の約四〇%を超えることはなった。これは生産後発の特色であり、又販売者と生産者が別々である点で販売品目が変化したり、行商活動が停止したりすると生産者に深刻な打撃を与えることになる。
 一、大規模巡回行商は売りあげも多かったが、人件費や交通費がかかり、納品、集金の遅滞などの問題点もかかえていた。又親方の持つ資本力もふくらみ、主力商圏である九州での単一品目の販売では先が見えていることや創始した月賦販売方式が大消費地でも成功するという予見も重なり、行商活動の大転換がはかられた。そして行商大集団はそのまま東京・大阪等へ進出し、「月賦百貨店」が設立される一方、在来の商圏での漆器行商は、再び五~一〇人の小集団での一拠点集約行商にかえり、行商を継続していった。
 この転換は明治末期から大正初期にかけて行われ、昭和期にも変化することはなかった。小集団行商の特色は行商の主権が完全に在方に移り、必然的に農閑期を利用した農業兼業行商となったことである。中心商圏である九州の交通が開け、中小都市が多数成立していったので、在方の小資本でも十分小集団親方となることができ、個人行商もできるようにたったことを背景とするもので、商圏の相互不可侵も協定され、なかには故郷を離れて定住するものも現れた。 この行商型の最盛時は大正の後半から昭和一〇年頃までで、大正一一年(一九二二)頃には越智郡桜井町内で親方五七、売子約三五〇人が稼動し、周辺町村でも参加するものが増えて実数は六〇〇人前後にもなったといわれる。
 この頃、桜井の漆器製造業者は五七名、卸問屋は七名で共に行商者を保護し、行商一期の終了後に仕入商品代金を支払うのを常とした。仲介卸問屋は輪島・黒江・山中・木曽福島などの商品を大量に仕入れたが、行商者も直接これらの他産地と取引することもあり、特に黒江では伊予商人が最大の顧客であったと記録している。
 行商期間は「春たて」が四~五月、「秋たて」が九~一〇月。農閑期合せて約四か月で、割賦は五~一〇か月と短縮されている。


 漆器行商と月賦販売

 漆器は高価な什器であり、誰しも分割支払を発想する。輪島などは、いちはやく講方式を実施している。しかし、この支払方法は現品後納なので最後のくじ番の人は長い期間待たなければならないという大きな欠点があった。桜井でもこの講方式をとった時期があり、明治一五年(一八八二)の記録では、四五円の講を一五人で作り、七年決済の方法をとると最終の人は七年待たねばならなかった。
 輪島のような高級漆器は製造斯間か一~二年と長く、注文取り行商の応需生産では此の現品後納方式が適合した販売方法といえたが、桜井のように他産地の大衆品を多量に売りさばき、マージンを稼ぐ方法では短期決済の必要に迫られるものであった。漆器の生産と販売の分離した桜井では行商者の裁量が自由であり、明治三〇年代後半の長期巡回行商と共に現品前渡しの月賦販売にふみ切ったものである。この商法の創始者といわれる田坂善四郎商店の明治三九年(一九〇六)の記録では、頭金一割前納の一八か月分割となっている。桜井綱敷天満宮にある「月賦販売発祥の地」碑の裏面に記名された一三人の行商親方を中心に、明治四○年前後に月賦販売方式が実施されたのは事実である(写真2―27・表2―61)。
 この月賦販売方式の創始には諸説があり、シンガーミシンやエンサイクロペディアブリタニカの辞書販売にも、明治三六年から四〇年にかけて採用されているが、創始の僅かの時間の差は問題ではなく、商法の合理的移りかわりであることに意義がある。
 この商法の宣伝文に「信用取引」であることがうたわれているが、この信用は行商訪問によって相手の住所、信用度を確認できたという条件に支えられるものであり、また明治三〇年(一八九七)の八幡製鉄設立や、これと前後して稼動した三井三池炭田、三菱長崎造船所など、北九州を中心とする近代産業従事のサラリーマンの急増も、月分割になじみやすい条件となっていた。
 さらに特筆すべきは、この商法が漆器以外のどんな商品にも適用できることを確認したことであり、家具全般、衣料、貴金属の月賦販売を、東京・大阪で開始したのは日ならずしてのことであった。


 その後の月賦販売

 昭和の動乱期は、在来の漆器月賦行商にも、都市型多品目月賦販売者にも大きな打撃を与え、前者は帰農してしまったり、戦時体制下の労働力として吸収されるなどし、後者も、ぜいたく品の購入をあおる商法として禁止状態におかれ廃業して故郷に引きこもった。
 戦後も漆器行商は生活様式の変化に影響されて小人数が営業を再開したが衰退の途をたどり、現在は二〇名前後が、かつての行商故地で店舗を持った営業を続けているに過ぎない。今治市桜井の仲介問屋及び製造卸屋は昭和六一年で一〇店あるが、すべて小売活動であり、若干の卸売を加えているという実態となった(表2―46参照)。
 それに対し都市店舗月賦販売業者は、戦後の衣料品不足に目をつけて不死鳥の如く復活し、月賦百貨店として近代化に成功していった。昭和五五年の「日本月賦百貨店組合連合会」の会員五六六名のうち九五%までが今治市を中心とした「伊予商人」で占められているという実態は、まさに独占以外のなにものでもない。
 現品前納、各月集金という商法は一面危険度の高いものであるとされるが、それを容易にしたのは行商時代からの従業者の地縁血縁に結ばれた強力な信頼関係に根ざす伝統的なもので、他の追随を許さないものである。現在はクレジット商法の先駆者としてゆるぎない地位を全国的に保っている。

図2-35 明治5年 帆船行商航路図(桜井―宇土)

図2-35 明治5年 帆船行商航路図(桜井―宇土)


図2-36 明治初期の桜井行商親方・売子の分布

図2-36 明治初期の桜井行商親方・売子の分布


表2-60 桜井漆器行商者の分布と行商地(大正11年頃)

表2-60 桜井漆器行商者の分布と行商地(大正11年頃)


表2-61 今治市桜井の月賦販売初期貢献者

表2-61 今治市桜井の月賦販売初期貢献者