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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 今治城下町の形成と発展

 今治築城

 近世初頭の今治地方の支配者であった村上武吉・福島正則・池田景雄・小川祐忠らは皆平山城である国府城(唐子山城)に拠っていた。唐子山は標高一〇五・三mの分離丘陵で、頂上から汀線まで約六〇〇m位の位置にあり、西麓にほぼ同じ距離で国分寺があって、南北朝時代は伊予南朝の統帥脇屋義助の居城でもあった。この国府城の城下町としては北西方向に約二〇〇〇m離れて拝志町があり、それは金比羅街道に沿ったほぼ一筋の街で、名殺西方寺や真光寺の門前町でもあった。
 関ヶ原の役後、それまで宇和島八万三〇〇〇石の城主であった藤堂高虎は功により東予で一二万石を加増され、所領伊予半国の大身となり国府城に入った。そして藤堂家史『宗国史』にも「……国府城、地勢卑窄……」とあるように、その禄高にふさわしい新城と城下町の建設、経営を必要とし慶長七年(一六〇二)に築城を始めた。なお時を同じくして松前六万石から中予地方を中心に別に伊予半国二〇万石の大名となった加藤嘉明も勝山に松山城の築城を開始したが、このことは、伊予が今治と松山を中心とする、近世中規模生活圏にほぼ二分されたことを意味する。
 藤堂高虎は当代きっての築城の名手といわれ宇和島城・高松城・江戸城・亀山城等の築城にたずさわっているが、今治城築城にあたって彼が越智平野の中央を流れる蒼社川河口左岸の今治村・蔵敷村にまたがる地を選んだのは単に城郭建築の名手であっただけでなく地政学的見識の高かったことを示すものである(写真2―28)。
 東南を蒼社川で、西北を浅川で限られた沖積平野の中でも蒼社川河口に近い左岸一帯は、はんらん原であり悪地ともいえる低湿地が多かったが、ここに約八町四方(約九〇〇m)の広大な城域を縄張りし、それを三重の堀で囲み、中央部に本丸と五層の天守閣を造成した。
 この広大な城地を確保することは蒼社川右岸でもできたわけであるが、それを左岸に設定したのは、西瀬戸内海の東部をおさえる芸予諸島との海運上のかかわりを明らかに意識したものであり、しかも来島海峡の急流の影響を直接的には受けない微妙な場所である。
 そして前述の三重の濠はそれぞれ海水で結ばれ、特に中堀は、城域の北西を限る金星川の形成する中州や入江と結ばれて船溜となり、後には御船倉や御船手役所、船頭町などがおかれ、現在の今治港の原型となるものであった(天保八年(一八三七)谷口氏絵図)。この城地を高虎は約二年三か月で完成したとされるが、ぼう大な量にのぼる石垣の花崗岩や用材は近隣の国分城・来島城・また大島のそれを運んだものとされ、舟運の至便がなくては不可能な短期間の営造であった。海水の干満の差は最大三mでそれを巧みに利用して三重の堀は常に水をたたえ、しかも南西方向から流入する泉川・大坪川・神ノ木水などの小河川の水は各濠で受けて調節がはかられ堀に面する土手には松や笹が植えられ、防禦と防水の役割を果たしていた(図2―37)。
 この八〇万平方mの広大な城域が僅か二年余で、水田と湿地と砂州が入りまじり、農家の点在する低湿地にこつ然と立地したことは、地域生活圏にとってはまさに驚嘆すべきできごとであったはずである。普請奉行の渡辺勘兵衛・木山六之丞の名字木山音頭が今に伝えられ、また今張や今治の地名がすでに一三世紀後半に初見されるのに、高虎治世を象徴する地名と印象づけられているのもこれを物語るものである。高虎は築城の四年後、慶長一三年(一六〇八)伊勢に転封され、後今治城には彼の養子高吉が二万石で二八年間居城したが伊賀名張へ転じ、寛永一二年(一六三五)久松定房が三万石で入国し、久松藩政が明治二年(一八六九)までの二三四年間続くことになる。
 今治の築城と開町は、その規模の大きさと期間の短さを考えるとき、二〇万石所領の財力の所産ということができる。以後の二~三万石の禄高では五層の天守閣の保持などは不可能なことで丹波亀山城に移され、そして今治地方は古来からの越智・野間郡陸地部と島しょ部の生活圏に相応した諸規模での経営がはかられる。


 今治城下町の形成

 今治城下町の町割は今治城築城と並行して、慶長八年(一六〇三)から始められた。規模は四町四方で城域に比べて四分の一の面積である。町の南側は城域の北側を流れる金星川で、北は大山祇神社前より東に流れて海に入る幅四間の小川で境し、そのすぐ北側に十数寺を配して北の守りとした。現在寺町と称される場所である。西は洪水防止のやぶ床で今治村と界し、東側は海に接していた。
 この方型の中の町割は南北方向に六〇間、東西方向に三〇間の整然とした短冊型で各一~四丁目に区分された。中央の本町は城内三の丸北門辰の口に続き、北は波止浜街道に通ずる中心街で、最近まで本町商店街としてにぎわったところで、道幅も二間半と広かった。それから東側の海岸に向かって風早町・中浜町・片原町と並び、一番海側の片原町は片側町であり、西側内陸部へは米屋町、室屋町となっていた(図2―38)。
 城域と同じようにこの町方部分も平坦な低地に急速に造成されたので没収した百姓の農地も広く、今治村庄屋より寛延三年(一七五〇)に出された口上書には「田畑七四〇余石分のうち四三〇余石分を召し上げられたので代わりに麹商買の特権を与えられ、ちなんで町名を室屋町とつけられ……」とある。又別の保証の意味で町内に百姓の居住を許していた。風早町四丁目あたりを塩屋町と称し、塩の専売を許したのも百姓の水主役負担の代償である。又米屋町四丁目には鍛冶職を集住させ鍛冶屋町と称した。このようにして今治六町が成立した(図2―38)。


 城下町の発展とその機能

 四町四方の町方範囲から町屋がはみだした場合、それは町の発展とみることができる。本町・風早町・中浜町・片原町の南側の鼻先にあたる湾頭及び砂洲の新地に寛永一二年(一六三五)頃以後に新町が成立した。
 『国府叢書』では延宝九年(一六八一)戸数六四軒とある。築城当初からの船溜り新地が整備され、船頭町や住吉町などの舟運にかかわる町もこの頃造成されたものと思われる。新町は三丁に分かれ、狭い宅地に間口三間、奥行き七~九間の小店が密集し鮮魚商が多かったと伝えられるが、現在も鮮魚店や海産物店が多い。次に延宝期(一六七三以後)にかけて本町の北側、寺町を通り越しての延長に北新町が成立した。新町に対する北側の新町という意味である。天和元年(一六八一)に戸数四四戸で百姓が多かった。なお、これに続く慶応町は慶応期に成立した町筋であり、天和三年(一六八三)成立した波止浜塩田を持つ波止浜町へ街道で結ばれていた。このように今治城下町の発展は本町―北新町―慶応町―波止浜と続く北側への伸展が明らかである。慶応町一帯は浅川の形成した沖積地であり、大正期以後は今治火力発電所や綿布・織布・タオル染色工場が並ぶ工業地帯として発展し、今もその立地を守っている(写真2―29)。なお中浜町四丁目に続く猟師町も今治村領域ながら市街地的に接続するようになり、貞享元年(一六八四)の人口二九二人を数えた。これにひきかえ三万石の小藩になってからは、城域の南東部の外濠付近一帯の蒼社川の右岸低地は古屋敷・古侍屋敷の地名が示すように荒廃し、昭和二年地価の安いこの場所に東洋紡績今治工場が立地するまでは悪地然とした土地であった(図2―39)。
 次に各町の発展と機能について記す(延宝九年の戸数は国府叢書による。又延宝八年の人口数は永頼見分録による。)。
 一、片原町、天和一年(一六八一)の戸数七一戸、延宝八年(一六八〇)の人口四五二人。東の端で海に面しており、片側町なのでこの名が付された。享保元年(一七一六)の町絵図では船手御札場、御番所があり、また、名村・宮窪屋・伊方屋・余所国屋・来島屋などの越智郡島方地名を屋号とする家が多く、石屋・船大工屋の職種が多いのと合わせて、近隣地域との船運にかかわる機能を多く持っていた。風浪の被害が多く度々護岸工事を行っているが、元禄一二年(一六九九)の『寸間改帳』では、浜側にも一八戸の家屋が成立している。大正一五年(一九二六)の市街図では旅館五、海産物店二、汽船事務所二がこの機能を受け継いでいる。
 二、中浜町、天和一年(一六八一)の戸数一二五戸、延宝八年の人口四九八人、元禄一二年(一六九九)の『寸問改帳』では一七軒の紺屋があるのが特徴である。どの町筋とも一~二丁目に豪商が多く、三~四丁目は間口のせまい商家、百姓分や寺院が並んでおり、この町でも国田屋や新屋などの豪商が住み国田屋は代々大年寄を勤めた。
 三、風早町、天和一年の戸数一二六戸、延宝八年の人口四九八人。慶長一一年(一六〇六)に風早郡に開発を許された桧垣新兵衛の屋敷があったのでこの名が付された。紀伊国屋・樽屋などの豪商がいる反面、三丁目の大部分は塩屋町二丁目と言い、塩の専売を許された百姓分が元禄一二年には二五戸も住んでいた。明治一三年(一八八〇)には戸数は一六二戸に増え、うち商業は八八戸、工業は三五戸となっている。二丁目を中心に、大工七軒、樋屋三軒が並び木工の町ともいえた。
 四、本町、天和一年戸数一九一戸、延宝八年の人口六五三人。開町当時からの中心街であり、道幅も二間半で最も広い。菱屋・備後屋・河上屋等、藩政と直結した豪商が一~二丁目に軒を連ね、間口も二〇間余と豪壮であったが、三~四丁目は大豆屋・米屋・紺屋・油屋・飴屋・茶屋等の雑多な職種が、間口二・五間~三間の小店をなしてひしめいていた。明治一三年には、戸数二二〇戸、うち商業一五三戸となっている。本町一丁目についていえば、元禄一二年の戸数一〇戸が大正一五年(一九二六)の戸数二一戸となり、ここでは豪商の広大な店舗が、近代的商店街として適当に細分化されたことを示している。
 五、米屋町、天和一年戸数一七八戸、延宝八年人口七二二人。戸数は本町に次いで多く、中心街本町に接して米屋を配したのでこの名が付されたとされる。元禄一二年の『寸間改帳』をみると畳屋・樋屋・大工・鍛冶屋・屋根屋などの職人町となり、なかでも鍛冶屋二七軒、大工職六軒などがめだち、四丁目は鍛冶屋町と呼ばれた。現在も鉄工所が名残をとどめている。明治一三年には戸数二九七戸に増加している。
 六、室屋町、天和一年戸数一四九戸、延宝八年人口不明。西端の町で、没収農地の代償に、糀の製造販売権を百姓に与えたのでこの名が付けられた。町の最西端は一~三・五間の藪床で今治村と接し防水に配意してある。元禄一二年の『寸間改帳』では、糀屋は一七軒を数えている。明治一三年には戸数二七九に増加している。
 七、他に天和一年新町六五戸、北新町四四戸、延宝八年新町人口四六四人、北新町一二二人がある。前者はせまい港頭地にできた間口一~三間の密集集落で、鮮魚商が多かったと伝えられ、後者は間口三~五間で百姓分が多く元禄一二年には六〇戸に増加している。
 明治に入っては、廃藩置県後に旧廓内と呼ばれる内濠以北の城内上さ屋敷が市街地化され、恵美須町・明治町・一~四番町や大手町・啓巳町・松本町が生まれ、西条街道(国道一九六号線)までが町域化され、一部は街道を越えて西に進出した。この新町域には主として郡役所・裁判所や学校など官公所が設立された。これに対し金星町両岸は、川を残して商店の多い金星町一~四丁目や、常盤町の一部も形成され、また旧六町は西部に拡大して栄町・住江町などをつくり、明治末にはほとんど国道筋までが市街地となっていった(図2―40)。
 なお、今治町開町以前に町方を形成していた拝志町は、寛永一二年(一六三五)に加藤家所領から今治藩領となり、町方支配を受け、元禄七年(一六九四)の『今治拾遺』には「拝志町一二九軒、立町四八軒」とある。維新前後には行商の町として発展した。

図2-38 今治町絵図

図2-38 今治町絵図


図2-39 今治城と城下町の発展図

図2-39 今治城と城下町の発展図


図2-40 今治市域の拡大

図2-40 今治市域の拡大