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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 玉川町のしいたけ

 しいたけ生産の特色

 蒼社川の源流地帯に位置する玉川町は、谷底平野での水田耕作のかたから、しいたけの生産が盛んである。昭和五九年現在のしいたけ生産量は乾しいたけに換算して、三万七〇七〇㎏で愛媛県下の二・七%の生産量に相当する。愛媛県は全国三位のしいたけ生産県であるが、その主産地は肱川流域であり、ここで約七四%のしいたけが生産されている。玉川町はこの肱川流域に次ぐしいたけの主産地であり、東予一のしいたけ産地である。
 玉川町のしいたけ生産の第一の特色は、肱川流域が乾しいたけの生産が多いのに対して、生しいたけの生産が多いことである。昭和五九年の玉川町のしいたけ生産量のうち八三%は生しいたけであり、その生産量は県下の生しいたけの二四%を占め、県下最大の生しいたけ産地となっている。第二の特色は、生しいたけの生産がビニールハウスを利用して不時栽培されていることである(写真3-7)。その栽培期間は生しいたけが高値で販売できる一二月から三月に調整されている。第三の特色は、ビニールハウスのしいたけ栽培は、米作のほかきゅうり・ほうれんそうなどの夏野菜との複合経営の一環として栽培されていることである。夏野菜はビニールハウスの休閑している夏季に、それを有効利用しているものである。


 しいたけ栽培の発展

 今治市街地を近くに控えた玉川町は、従来今治市に木炭や薪を供給する林業地帯であった。これら薪炭生産は昭和三〇年代に入って燃料革命の影響を受けて急速に衰退する。しいたけ栽培は薪炭生産にかわる現金収入源が求められる中で、新たに登場した商品作物である。
 玉川町のしいたけ栽培は、昭和三四年頃、旧竜岡村長の阿部久一の奨励で竜岡村小川地区の数名が試作的に栽培しだしたのを起源とする。本格的な生産は同三六年に山崎輝男外五名によって、竜岡村に小川しいたけ組合が誕生し、協業経営によって、しいたけ生産を開始して以降である。翌三七年には竜岡しいたけ生産組合が設立され、昭和四〇年農協合併後、鈍川・九和・鴨部地区にもしいたけ部会が誕生した。さらに同四一年には組合員六〇名によって玉川しいたけ生産組合が結成され、生産組織の拡充と共に生産量も飛躍的に増大する(表3-15)。
 玉川町のしいたけは当初から生しいたけの生産で始まった。生しいたけの市場は、生産開始当時地元にはなく、当初から大阪市場に向かった。県内市場では昭和三九年頃より松山市場次いで今治市場が開かれ、県外では広島県・兵庫県・京都府などの市場が開かれた。昭和五八年現在の出荷先は、販売量二〇二トンのうち、大阪市場に六四%、京都市場に二三%、今治市場に一三%となっており、その大部分が京阪神市場に出荷されている。
 玉川町の生しいたけの生産は、当初は自然発生が主体であったため、春秋に生産が集中していた。昭和四〇年代の後半になって生産量が増加すると共に春秋の労力ピークを軽減するため、昭和四八年無加温のパイプハウスと低温菌を導入し、一二月から三月にかけての冬季中心の不時栽培を開始する。冬期の生しいたけの生産は、鍋物に需要の多い市場の要請にも応えるものであった。現在大阪市場に生しいたけを出荷する主要産地は、奈良県・岡山県・徳島県などであるが、玉川町の生しいたけは、これらの産地に伍して、今日大阪市場では主要な地位を占めている。


 しいたけ栽培の特色

 玉川町のしいたけ栽培者は、昭和五八年現在では一一五名に達するが、その生産者の分布を見ると、竜岡地区四三人、鈍川地区三八人、九和地区二六人、鴨部地区八人であり、竜岡・鈍川・九和などの山間部がしいたけ栽培の主産地になっていることがわかる。これらの地区では、しいたけは稲作や野菜栽培、あるいは自営林業などとの複合経営の一環として栽培されているものが多い。
 鈍川地区中通の阿部将樹は、水田七〇アール、畑二〇アール、山林二〇haを所有し、しいたけ・きゅうり・稲作で生業を維持する。昭和五六年現在しいたけの榾木は三万五〇〇〇本所有し、その年間の粗収入は四〇〇~五〇〇万円、きゅうりは転作水田を利用して一〇アールに栽培し、その年間粗収入は七〇~八〇万円程度、稲は五〇アールの作付で五〇万円程度の年間粗収入をあげる。労力は夫婦と母の三人で、年間の投下労働力はしいたけ四〇〇人役、きゅうり二五〇人役、稲作八〇人役程度である(図3-1)。
 しいたけの原木はくぬぎ・ならなどであるが、それは自山と他山の原木に依存する。自山のくぬぎ林は一四年程度で伐採するが、萌芽更新後三~四年間は芽かぎ・下刈り・つる伐りなどを実施する。くぬぎの伐採は一〇月中旬から一一月上旬になされ、山元で六〇日程度乾燥されてから、玉伐り・植菌がなされる。植菌の終わった榾木は三月中旬から四月上旬にかけて裸地伏か林内伏がなされる。七月から九月にかけては裸地伏している林内の草刈りを行ったり、榾木の天地がえしを行ったりする。一〇月下旬から一一月上旬にかけては自然生えの秋子の収穫をするが、その後ビニールハウス内での不時栽培に移行する(図3-2)。
 しいたけの不時栽培は次のようにして行われる。一一月中旬頃ハウス近くに持ち帰った榾木は、ビニールやトタンで被い、発芽を抑制してのち、一一月下旬~一二月上旬にかけて、浸水(二〇時間)・水きり(二~三日)してのち、ハウス内に入れると五日程度でしいたけが発芽する。それを収穫の容易なようにハウス内に展開し、浸水後一五~二〇日程度で収穫する。収穫の終わった榾木はハウス近くでいげたに組み、一か月程度休養を与え、また同じような作業が施され、しいたけが栽培される。このような作業は一一月下旬~三月下旬頃まで榾木を四~五回に分けてくり返される。一本の榾木は一冬の間に二~三回転されるのが普通である。
 不時栽培の終わった榾木は、三月下旬から四月上旬にかけて順次榾場に帰される。一〇月下旬から一一月上旬にかけては秋子を収穫するが、以後の榾木はハウス内で不時栽培に使用されるものもあるが、多くは自然発生の春子と秋子を収穫する榾木として利用される。
 しいたけの収穫は自然発生のものも、ハウス内での不時栽培のものも、午前中に収穫され、午後各農家で選別・箱づめがなされる。農協への出荷は翌朝となり、そこで生産組合の検査がなされ、格付けされたものが京阪神市場にと出荷される。生しいたけが市場のセリにかかるのは収穫後三日目の朝となる。
 阿部将樹のしいたけ栽培の事例は、玉川町のしいたけ栽培農家の典型的な経営状況であるといえる。その栽培は冬季のハウス内での不時栽培を主体とし、きわめて労働集約的である。この農家では、きゅうりは露地栽培であるが、夏季のハウスの休閑期を利用して、雨除けきゅうりを栽培する農家も多く、また夏季に雨除けほうれんそうを栽培する農家もある。このように、しいたけの不時栽培用のハウスが夏季の野菜栽培に活用されている点からもわかるように、土地利用はきわめて集約的である。玉川町のしいたけ栽培は、土地利用や労働投下の面からきわめて集約的であり、都市近郊山村のしいたけ栽培の特色を示すものといえる。

表3-15 玉川町のしいたけ生産量の推移

表3-15 玉川町のしいたけ生産量の推移


図3-1 玉川町中通 阿部将樹の労力配分(昭和56年)

図3-1 玉川町中通 阿部将樹の労力配分(昭和56年)


図3-2 玉川町中通 阿部将樹の山林としいたけ経営

図3-2 玉川町中通 阿部将樹の山林としいたけ経営