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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

八 高縄山地の過疎集落

   -鈍川木地と竜岡木地-

 木地屋集落の特色

 高縄山の山ふところ深くに、木地という地名の集落が二つある。一つは玉川町の鈍川温泉の奥地にあり、他は同町玉川ダムの奥地にある。前者は旧鈍川村に属するので鈍川木地と呼ばれ、後者は旧竜岡村に属するので竜岡木地と呼ばれる。
 木地という地名の集落は、轆轤でもって木工細工を生産する職人の村、すなわち木地屋の集落であることが多い。伝説によると、木地屋は惟喬親王を祖師とし、承平五年(九三五)御綸旨をいただき諸国山々切り次第という許しを得て、近江小椋郷から全国各地にちらばったという。木地屋は木地免許・往来手形・宗門手形・縁起書・御綸旨の写しなど、いわゆる木地屋文書をもち、自分達は高貴な身分の人の血をひくので、一般のものとは通婚しないという誇りをもっていた。
 玉川町の二つの木地集落が、木地屋の定住した集落であるかどうかの確証はないが、種々の状況証拠からして木地屋の集落であったと考えるのが妥当である。その理由は、鈍川木地には、自分達は木地屋の子孫であるとの伝承が残っていること、昭和四三年に廃村になる前の住民の姓は門田と門岡姓が多かったが、これは木地屋の子孫の姓であるといわれていたこと、木地の道具である鉋などが残っていたこと、また年間二回の御当の家での組寄りには、木地の食器-汁椀・御飯椀・木皿-を用いて会食をしていたこと、通婚は集落内で行うか、竜岡木地と行えば間違いがないといわれてきたこと、などがあげられる。一方、竜岡木地には木地屋の子孫であるという伝承を残さず、また木地細工の道具も残存していないが、明治四四年の竜岡村誌によると鈍川木地の分村であると記されていること、通婚に関しては部落内婚が多く、他は鈍川木地との間で通婚がなされており、他集落とはほとんど通婚がなされなかったことなどからして、やはり木地屋の集落ではなかったかと考えられる。古老の言によると、血統からして、三木地(竜岡木地・鈍川木地の上と下)の間で通婚すれば間違いがないと言われていたとのことである(写真3-10)。


 林野所有の特色

 鈍川木地と竜岡木地は蒼社川の本・支流ぞいの源流地帯にあり、広大な山林にとり囲まれている。古老の言によると、昭和三〇年代に過疎化が進展する以前に、山林の多くは外部の山林地主の所有するところであったという。それでは二つの木地集落の林野所有はどのように展開してきたのであろうか、それを究明するために、明治中期編集の土地台帳をひもといてみた。
 鈍川木地は明治二二年(一八八九)には木地村として独立した村であった。林野面積は民有林一五八二町歩、官林一五六一町歩であり、相半ばしていた。官林は奥地にあり、民有林は集落に近い部分に分布していた。民有林は山林と草山に区分されているが、うち山林では八五三町歩が木地村有林、草山では六三七町歩が同じく木地村有林となっており、両者を合わすと、民有林のうち実に九四%は村有林であったことがわかる。これらの村有林は大正三年(一九一四)鈍川村に移管されたのち、同四年に木地の住民に分割所有されている。個人に分割された山林は大正年間から昭和の戦前にかけて、今治市など外部の山林地主に売却されていったものが多い。
 竜岡木地の属する竜岡上村の明治二一年(一八八八)の山林は、民有林一一一二町歩、官林九九四町歩となっている。竜岡上村の山林の大部分は木地の集落より奥地にあるが、その山林は官林を除くと、約九〇%は門田勝治外二九名の共有林となっている。門田勝治は竜岡木地の在住者であり、門田勝治外二九名の共有林は、竜岡木地の共有林ということである。この共有林は明治二五年(一八九二)に主として竜岡木地の集落住民に個人分割されている。これらの個人有林となった山林は明治末年以降外部の山林地主に売却され、昭和にはいると大部分の民有林は今治市などの外部の山林地主の所有となっていた。


 生業の特色
       
 集落の周囲を広大な林野にとり囲まれていた鈍川木地と竜岡木地の住民の生業は、農業と林業の相半ばするものであった。農業は水田や常畑の耕作もあったが、その特徴的なものは焼畑耕作であった。林業は製炭業と木材の伐採・搬出などが主なものであった。
 明治四四年(一九一一)の鈍川村誌によると、鈍川木地の耕地面積は水田一〇町五反歩、畑二一町五反歩となっている。これを農家戸数三七で割ると、一戸平均水田二・八反歩、畑五・八反歩となる。水田は蒼社川の支流木地川の川ぞいに開けていたが、灌漑水が冷たいので単位面積あたりの収量は低く、米を自給するまでには至らなかった。畑は集落の周辺部に野菜を栽培する常畑があったが、その多くは焼畑であった。竜岡木地の明治年間の耕地面積は不明であるが、地形の制約もあり水田面積は鈍川木地より狭小であり、住民は食料の多くを焼畑に求めていた。
 焼畑は明治年間の土地台帳には伐替畑と記載されているが、地元の住民は焼畑あるいは山作と呼称した。樹木を伐採してのち火入れを行うが、火入れの時期は春三月頃と、夏のお盆前であり、前者が春焼きの山、後者が夏焼きの山である。春焼きの山では、初年作物にひえ、二年目にあわ、三年目に小豆や大豆などを栽培する輪作が多く、夏焼きの山では、初年作物にそばをまき、翌年にひえ又はあわ、三年目に小豆、大豆などを栽培する輪作体系が普遍的であった。
 焼畑は天然広葉樹林を薪炭林などに利用した跡や、杉の人工林の伐採跡に造成された。焼畑用地は自己の所有林が利用される場合と外部の山林地主の山林が利用される場合があったが、明治末年から大正・昭和と時代の進展と共に山林が外部地主に流出していったので、次第に焼畑用地は外部の山林地主の林野に依存するようになっていった。外部の山林地主の林野を焼畑小作する場合は、杉の植林を条件に無償で焼畑小作する例が多かった。この場合、杉苗は山林地主が購入し、小作農民が自給作物を栽培しながら、杉苗を無償で植栽し、撫育していったのである。杉の成長と共に焼畑耕作は三年程度で放棄し、山林を所有者に返還するのが一般的なやり方であった。
 焼畑耕作で栽培したひえ・あわ・そば・とうもろこし・大豆・小豆などは、住民の自給用に供された。ひえは米や麦と混ぜてひえ飯として食べたり、粉にしてひえだんごにして食べた。あわはあわ飯として食べたり、もち米を混ぜてあわ餅にして食べた。そばは麺状にしてゆでて食べたり、そば団子やそば飯にして食べた。大豆は黄粉として利用したり、祭日に豆腐を作って食べた。小豆は餅のあんにしたり、小豆飯にして消費した残りは、米を購入するために販売したりもした。明治年間の鈍川木地や竜岡木地の住民の主食は、これら焼畑で栽培した雑穀と麦であり、米は主食全体の中で二〇%も占めなかったといわれている。
 耕地面積の狭い鈍川木地平竜岡木地の住民は、現金収入を広大な林野に依存してきた。林業で最も重要なものは製炭業であった。木炭の原木は自山に依存する者もあったが、林野が次第に外部の山林地主に流出したので、他山に依存する者が多かった。また大正年間から昭和の戦前にかけては、奥地の国有林に入山し、その払下げ原木に依存して製炭する者もあった。木炭は仲買人の手をへて今治市の木炭問屋に出荷されるものが多かった。
 明治末年の村誌によると、国有林は鈍川木地の奥地に一五六二町歩、竜岡木地の奥地に九九四町歩あった。奥地の国有林には、もみ・つがなどがうっそうと繁っており、これが明治年間から用材として伐採された。国有林の払い下げを受けるのは今治市の木材問屋であったが、巨木の伐採には高度の技術がいるので、その伐採・搬出に従事するものは高知県出身の林業労務者であった。彼等は山中に長屋式の小屋を造り、起居を共にしていた。天然林の伐採跡には杉が順次植栽されていったが、その植林・撫育などには、地元の鈍川木地や竜岡木地の者が従事するものが多かった。
 冬季には狩猟も盛んに行われた。主な捕獲物には、猪・鹿・てん・きじ・やまどりなどがあったが、この中では猪の狩猟が最も重要であった。狩猟の時期は旧正月から一か月間くらい、山に雪が積もったときになされた。猪狩りは数人がグループを作って行き、猪を追い出す勢子と、それを待ち伏せして鉄砲で撃つマチが呼吸を合わせて行った。猪を射止めると、その場所で左耳をそぎ落として、それを木の枝にかざし山の神に供えたり、おこぜが好きだという山の神のために、おこぜをたずさえて入山したり、山中での忌み言葉があったり、古い狩猟の習俗が保存されていた。東北地方のマタギのような狩猟の組織と習俗の片鱗をうかがわせるものがあった。獲物は最初に撃ったものが胆を取り、止め矢を射た者が頭を取り、他は参加者が平等に肉を分けたという。肉は村にとって帰り、野菜と一緒に煮込んで食べる汁かけ、骨つきの肉で汁をつくる骨たきとして食べた。一部は近在の村や今治市で販売されるものもあった。
 以上のような状況が、明治・大正年間から昭和三〇年頃までの鈍川木地と竜岡木地の生業の概要であったといえる。


 社会組織の特色

 わが国の農山村の村落共同体を支える物的基盤は山と水であるといわれてきた。明治中期には鈍川木地・竜岡木地ともに民有林のうち九〇%余が共有林であった。共有林には草山が広く、採草地としての意義を持っていたが、水田の面積自体が狭小であったため、入会採草地としての意義は小さく、共有林は竜岡木地では明治二五年(一八九二)、鈍川木地では大正四年(一九一五)と、比較的早く個人に分割されていく。水田は小規模なものが谷間に点在しており、大きな灌漑水路はなく、水田には各自が水路を設置して灌漑した。山と水は、この奥地集落では、村落結合上重要な意義を有していなかったといえる。
 しかしながら、交通不便な奥地山村に住む住民は、相互に扶助し合うことによって日常生活を維持していた。昭和三〇年頃までの家屋は大部分草葺き屋根であったが、屋根葺きは全戸の加入する萱無尽によって行われた。屋根葺きの家が決まると、各戸がその家に萱を提供する義務があった。萱刈りは正月に入ってなされたが、各自どの山に入山して刈り取ってもよかった。屋根葺きは広島県などから職人を雇ってきてなされたが、その手伝いは親戚や近隣のものによってなされた。家普譜や急病人の搬出なども親戚や近隣のものによってなされた。集落住民全戸が出て行うものは道修理と葬式のみであり、奥地山村としては、それほど強固な相互扶助組織があったとはいえない。


 挙家離村の要因
         
 鈍川木地と竜岡木地は第二次大戦後、挙家離村が続出した典型的な過疎集落である(表3-19)。鈍川木地の戸数は明治四四年(一九一一)編さんの鈍川村郷土誌によると、三七戸一四一人となっている。大正末年の戸数は上木地一五戸、中木地一一戸、下木地七戸の計三三戸となっており、若干の戸数減少をきたしている。第二次大戦中や戦後には、都市部からの疎開などもあり、四〇戸程度になっていたが、昭和二〇年代の後半から挙家離村が相次ぎ、昭和三五年には二一戸となる。その後も挙家離村は続出し、ついに昭和四三年にはまったく無人の集落廃村となる。一方、竜岡木地の戸数は、明治二一年(一八八八)の土地台帳の共有林の所有者が門田勝治外二九名となっているところから推定すると、当時三〇戸であったと考えられる。第二次大戦中から戦後にかけては、三七戸程度の集落であったが、昭和三〇年代になって戸数が減少し、同四三年二二戸の集落となる。その後も戸数はさみだれ式に減少し、昭和六〇年には四戸一四人の淋しい集落となってしまった。
 両集落の挙家離村の要因は、木材の伐採が減少したり、製炭業が衰退して、住民の現金収入が減少したという経済的要因と、奥地集落であり交通が不便であったという社会的要因に求められる。木材の伐採は国有林・民有林ともに昭和三〇年代後半より減少、製炭業もまた燃料革命の影響をうけて、昭和四〇年頃から壊滅的な打撃をうける。山村住民の現金収入の途絶は挙家離村をうながす最大の要因であった。
 また両集落は玉川町の最奥の集落であり、きわめて交通不便であった。中学生までは自宅からの通学が可能であったが、高校生になると今治市の高校までは通学が不可能であり、いきおい下宿生活を強いられる。昭和三〇年代から進学熱が高まり、今治市内への高校進学者が増加するにつれて、高校に進学する子供に引っぱられるような形で挙家離村したものは多い。住民が高度経済成長期に交通不便を感じたことが、挙家離村をうながす第二の要因であった。


 離村先と住民の生業

 鈍川木地と竜岡木地の両集落の挙家離村先の大部分は今治市である。それは今治市が昭和三五年以降の高度経済成長期の間に造船業や繊維工業などで活況を呈し、人口の吸引力に富んでいたこと、今治市は玉川町の住民にとっての中核都市であり、従来から通勤・通学・買物などを通じて交流の深い都市であったことによる。
 挙家離村は先発隊が後発の者に情報を提供したり、就職を斡旋することによって、誘導されて行われるのが通例である。鈍川木地と竜岡木地の離村先をみると、蒼社川流域の今治市街の外縁地区を主として志向している(図3-4)。それはこの地区が今治市街地に出る通路にあたり地理に明るかったこと、市街地の外縁部であり住宅用地の取得に便利であったこと、先発隊がまずこの地に定着し、後発隊を順次誘導したこと、などによるものである。
 離村先のなかには農業を営んでいる者もあるが、彼等は昭和二〇年代の後半~二〇年代の前半に離村した先発隊であり、奥地の農地を処分した金で、今治近郊の農地を取得したのである。当時は今治近郊の農地よりも、奥地山村の農地の方が高いという状況であった。その後、挙家離村が続出するにつれて、奥地山村の農地は買手がなくなり、農地の価格は下落する。一方、都市化の進展する今治市近郊では農地が激しく急騰し、昭和四〇年代にはいって挙家離村したものは、今治市郊外で農地を取得することは困難となり、農業を営むものは皆無となる。彼等の多くは造船工場や繊維工場の工員となったり、今治市内でのサービス業に従事する者が多い。これらの就職に際しては、先発の離村者が後発の離村者に情報を提供したり、就職の斡旋をした者も多い。
 離村者は今治市内で親睦会を結成し、旧交を温めている。鈍川木地では、氏神の奈良原神社にちなんで奈良原会を結成し、竜岡木地では木地会を結成している。年間二回程度の親睦会を正月や春秋に開催し、この席で種々の情報が交換されている。


過疎集落の跡地利用

 昭和三五年の農林業センサスによると、鈍川木地の農家戸数は二〇戸で、水田八・八にha、畑一・五ha、山林一六二haを経営していた。一方、竜岡木地の農家戸数は一九戸で、水田五・八ha、畑〇・六ha、山林五〇haを経営していた。鈍川木地では、昭和四三年廃村になるに至って、耕地はすべて耕作放棄され、林地や荒地にと姿を変えていく(写真3-11)。山林も離村にあたって多くの者が転出資金を得るために売却し、現在旧在村者で山林を保有する者は少ない。一方、竜岡木地も、昭和四〇年代にはいって戸数が激減するにつれて、耕地は耕作放棄され、昭和六〇年現在は集落付近の菜園がわずかに経営されているにすぎない。山林の多くも離村に際して外部の地主に売却されていった。
 両集落で現在山林を所有している者は、休日などを利用して保育作業をする者、玉川町の森林組合の労務班に保育作業を依託する者、山林を資産としてのみ所有し、保育作業をまったく行わない者などに区分されるが、住民を失った山林は、概してその利用が粗放化されている。

表3-19 玉川町の集落別人口と世帯数の推移

表3-19 玉川町の集落別人口と世帯数の推移


図3-4 玉川町鈍川木地の離村民の住居の分布

図3-4 玉川町鈍川木地の離村民の住居の分布