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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 概説

 自然環境と歴史的背景

 野間地方は高縄半島の北部に位置し、斎灘に面している。近世以前の野間郡域は、現在の越智郡波方町・大西町・菊間町及び今治市のうち旧波止浜町と乃万村を含む地域であり、東と南は越智郡に接し、西は風早郡に接していた(図4-1)。
 南西部に位置する大西町・菊間町の大半の地域は高縄山系の北麓の丘陵地にあたり、地質は中生代に起因するとされる黒雲母花崗岩がほとんどの地域をおおっている。平地は少なく、わずかに斎灘に流入する品部川・山之内川・天満川・佐方川・種川・菊間川等の下流域に小規模な沖積平野が見られる程度である。筥潟湾から樋口を経て沢池にいたるいわゆる樋口低地は、領家帯花崗岩類を切って東北東~西南西に形成された幅二五〇~五〇〇m、長さ三~四kmの地溝帯と一般に考えられており、汐越のあたりは古くは干潮時には地続きとなるが、満潮時には北部の半島部分(現波方町)は島のようになっていた。樋口低地より北部は大部分が丘陵で占められ、平地はきわめて少ない。このため、集落は波方・森上・馬刀潟・小部等にわずかに見られる海岸低地に集中している。気候は全般的に温暖で、年平均気温は一五・六~一五・八度くらいであるが、年降水量は一三二〇~一三八〇mmくらいで全国平均に比べて少なく、特に夏季には著しく少雨となる時期がある。
 野間の名が最初に文献に現れるのは、釈日本紀にある『伊予国風土記逸文』に野間郡の熊野岑の記事がおり、『和名抄』に「野間・乃万・今作能満」とあり、「濃満」と記しているものもある。『国造本紀』には怒麻国造を「飽速玉命三世孫若弥尾命定賜国造」としている。これらのことから、怒麻から能満・野間に転じていったとする説が一般的である。『和名抄』では野間郡の郷として、宅間・英多・大井・賞多・神戸の五郷が記されている。
 平安期から鎌倉期にかけては、菊間地方は京都上賀茂神社の荘園となったが、その広さは鎌倉末期の資料によると、「菊間荘百三十町、佐方郷廿四町小」であった。なお、神戸郷と推定される地域には野間神社裏の宝篋印塔など鎌倉末期の石造物が数多く残存していることで有名である。鎌倉期以後、野間地方は風早郡を本拠地とした河野氏の支配下に入るが、室町中期から戦国期にかけては村上水軍の活動が活発化するにつれ、村上氏や来島氏の直接支配を受けるようになった。野間地方の人々にみられる海洋志向型の気質はこのころから培われたものであろう。近世には、野間郡は三〇か村に分割され、松山藩の支配を受けたが、このころから製瓦業、製塩業、漁業等が盛んであった。明治一一年(一八七八)の郡区町村編成法によって風早郡と合し、同一四年には越智郡と合した。同二二年の町村制施行に伴い、乃万・波止浜・波方・大井・小西・亀岡・歌仙・菊間の八か村となり、同二九年に越智・野間の二郡を併せて越智郡が誕生し、野間郡の名は消滅した。


 野間地方の町

 波方町は県陸地部の最北端に位置し、三方を海に囲まれている。町内のほとんどの地域は起伏に富んだ丘陵地であり、平地は少ない。明治二二年(一八八九)の町村制施行に伴い六か村が合併し波方村となったが、昭和三五年に波方(なみかた)と呼称変更するとともに町制を施行した。人口はわずかずつではあるが着実に増加している(表4-1)。
 昔から全国でも有数の海運の町として知られてきたが、昭和三〇年頃から全国の動きに先がけて鋼船化に着手したことによって波方船主の存在は一層有名となった。その後も同町の海運業は発展を続け、国内ばかりでなく東南アジア一帯でも活躍するようになり、海運業は波方町を代表する産業となっている。かつて陸上交通の便は良くなかったが、三八年に中国と四国とを最短距離で結ぶ波方フェリーが開設されたことにより、一躍交通の要所となった。五九年現在二三~二四往復している。また、同町には五五年にLPG・石油等の受け入れや、備蓄の基地となる波方ターミナルが建設されたが、これは我が国最大級の貯蔵能力を持つ基地として注目されている。
 大西町は北部は斎灘に面して単調な遠浅海岸が続いており、九王の鴨池海岸、弓杖島、怪島等は瀬戸内海国立公園の一部を構成する景勝の地である。南部は高縄山系に連なる三〇〇~四〇〇mの山地が東西に走っている。近世には野間郡の代官所が置かれ、新町は政治と商業、宮脇は門前町と商業とで大正期まで盛えていた。明治二三年(一八九〇)に五か村が合併して大井村が、また四か村が合併して大西町となった。町内を一般国道一九六号と国鉄予讃本線が通っており、交通の便は大変良い。
 海岸部には来島どっく大西工場とその関連企業が多数立地して一大工業地帯を形成している。また、タオルの主産地である今治市に隣接していることからタオル工場も多い。丘陵地帯から山間部にかけては傾斜地を利用して柑橘栽培も盛んである。近年は今治市の通勤圏となり、住宅団地の造成や工場の誘致など、今治広域圏の一部として農・工業の調和のとれた町づくりを行っている。
 菊間町は野間地方の西端に位置しており、標高二〇〇m以上の山地が全体の三分の一以上を占め、このため耕地の多くも丘陵地帯にある。近世には松山藩に属し一一か村に分かれており、西月番所によって所管されていた。明治二二年(一八八九)の町村制で菊間町・歌仙村・亀岡村が成立し、菊間村は四一年に町制を実施した。その後、大正一四年(一九二五)に歌仙村、昭和三〇年に亀岡村と合併し現在にいたっている。
 産業は農業と工業の両面にわたって盛んであるが、第一次産業では柑橘、養豚のほか漁業も盛んである。第二次産業では、江戸時代から有名であった製瓦業が安定した需要を保っているほか、昭和一六年から操業を始めた太陽石油菊間精油所も活発に事業を行っている。同精油所構内に、五七年通産省(石油公団)による我が国最初の石油地下備蓄実証プラントが竣工した。「みどりと瓦と于不ルギーの町」をキャッチフレーズに農・工業の調和ある発展をめざした町づくりがおこなわれている。

図4-1 野間郡の五郷推定位置図

図4-1 野間郡の五郷推定位置図


表4-1 野間地方の市と町

表4-1 野間地方の市と町