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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 石油精製所

 石油精製

 菊間町種に立地する太陽石油㈱菊間製油所は愛媛で誕生し、愛媛で成長した企業であり、設立は昭和一六年二月である。その生みの親である青木繁吉は、明治四一年に当時高知地方で「セキタン」と呼ばれていた回転率の早いランプ用の灯油の行商を始めた。しかし、ランプは徐々に電灯に切り替えられていく時代で、その動きに気付いて販売商品の主力を灯油から船舶用エンジン油・機械油に切り替えた。当時としては、これらの石油製品の需要が多い南予へ着眼し、店を高知県高岡町から八幡浜市へ移転した(大正四年)。八幡浜を根拠地に、当時貝印で知られていたライジングサン石油の代理店、さらに特約店となり、石油製品の直販を、併せて蒸留釜による重油・機械油などの製造、大分との間のタンカーの運航など海運業へも進出した(大正七年)。この木造船タンカー第五繁久丸(四六トン)は、わが国最初の木造タンカーの運航であった。昭和五年には個人商店から㈱青木石油店となった。石油の重要性が認められてくる時局の推移と立地上の瀬戸内の重要性を見抜いて、越智郡亀岡村にタンク、蒸留装置などの新鋭設備の新設にふみ切った。この昭和一三年にはすでに戦時体制下にあり、やがて当時の商工省の肝入りで、兵庫のミカド製油、松山の松岡石油との三社で太陽石油㈱が青木繁吉社長の下で発足した。
 太陽石油誕生後の歩みは表4-17に年表として示した。そのうち、昭和四六年の集中合理化装置と一連の自動車用ガソリン製造設備の完成は、以後の発展の大きな原動力となった。また、この年に増設された新鋭集中合理化装置をはじめ、四万九〇〇〇バーレル/日の常圧蒸留装置などに必要な工業用水日量一万トンが、今治工業用水から供給されるようになった(図4-7)。こうした関連工事の完成により、菊間製油所で生産される製品は、従前とは比較にならぬ付加価値の高い製品となり、販売の実績も上昇した。その後のオイルショックを経験する中で原油供給地を、中東から軽質・低硫黄化をめざしてインドネシアや中国にも拡大し、各種関連会社を相次いで設立し、今日に及んでいる(表4-17参照)。
 会社概要は、資本金四億円、昭和五八年度の年商三二八六億円、従業員四四一人(青木繁良社長以下一八人の役員)で本社を東京におき、東京・大阪・名古屋・仙台・広島・福岡・高松・松山に支店を配している。なお、菊間製油所の設備能力は表4-18に示した。


 石油地下備蓄

 石油の国家備蓄を増やすため、通産省・資源エネルギー庁が、昭和六〇年度予算で要求していた地下備蓄基地建設について、建設候補地の精密調査費一二・六億円と事業主体設立のための予算一七・五億円が計上され、日本で初めての地下石油備蓄基地が具体化に向けてスタートした。地下石油備蓄基地建設の侯補地として、岩手県久慈市、鹿児島県串木野市、愛媛県菊間町の三か所が挙げられた。
 菊間町では、五六年度からボーリングによるフィージビリティ・スタディ(立地可能性調査)を実施し、二・五万klの規模の空洞を試掘し、亀裂が起きないかなど、実用化実験を続けていた。地下備蓄実証プラントは、五七年三月に石油公団の手で完成し、現在実用化実験が続けられているが、実証プラントの一〇倍の二五〇万klの基地建設実現に向けて、受け入れ体制を整えることになった。実証プラントは横穴水封方式で、地下水圧によって貯蔵油の漏雨、漏気を防止する方式で、貯油槽は海水面下六二mの岩盤に設ける、高さ二〇m、幅一五m、長さ一一二mのかまぼこ型空洞でタンク容量は二・五万klである。基地建設方法は、一個当たり一〇~三〇万kl程度の収容能力を持つ地下ドームを数個ないし一〇個程度つくり、これをパイプで連結して一つの基地をつくるものである。地下備蓄基地の建設には、地底に厚い岩盤層のあることが条件で、地下数十mまでは細いたて穴を掘り、岩盤層に行きついたところで岩をくり抜き、そこにラグビーボール状の空洞をつくる。地下備蓄の利点としては、陸上備蓄基地に比べ、建設費が一~二割安くすむ、広大な用地を必要としない、地上災害や気候の変化などに強く安全性が高いなどの利点があげられる。いっぽう基地建設に伴う問題としては、基地建設地点の地上部の用地買収、建設工事で出てくる土砂の利用法、基地関連用地などの海面埋め立てによる漁業補償、漁港移転などがある。
 菊間町の場合、町の構想では、皆曲地区の沖合一〇万平方mを基地建設工事に伴う土砂を利用して埋め立てて、基地の関連用地とする。また、土砂を使って葉山地区沖一〇万平方mも埋め立て公園用地と工業用地、公共施設用地にする。なお、石油の国家備蓄は、五八年度末実績の一七五〇万klに対して、六三年度までに三〇〇〇万klの目標を定めている。


 四国最大のLPG基地

 波方町宮崎に、昭和五六年四月から建設を始め五八年九月に完成をみた四国最大のLPG(液化石油ガス)基地「波方ターミナル」は、三菱商事一〇〇%出資の総合石油備蓄基地である。この基地は、昭和五〇年に波方町と今治市内の中小九造船所が共同出資で設立した「東予ドック」が、五一年からの造船不況で経営危機に陥ったのを機に、波方ターミナルが約三〇万平方mを買収して建設したもので、従業員九〇人のうち約五〇人は東予ドックの元従業員である。このターミナルは、中近東・米国・東南アジアなど主として海外から輸入されるLPG・石油・石油化学製品をタンクに貯蔵して管理し、必要に応じて元売り会社や電力会社に出荷する事業を営むことを目的としている。主要施設は、四万五〇〇〇トンのLPGタンク四基、六万klの石油類タンク三基、一万七〇〇〇klと一万klの石油化学製品タンク各三基、そのほか付属の小型タンク一三基からなる(写真4-6)。このうち、家庭用のプロパンガスやタクシー燃料のブタンガスを貯蔵するLPGタンクは、総容量一八万トンで、四国最大、西日本でも指折りの施設である。また、海岸には一二万五〇〇〇トンの外航タンカー受け入れバース一基と、三〇〇〇~一万トンまでの内航タンカーの入出荷バース六基を設けている(図4-8)。
 安全と公害防止対策としては、LPGはマイナス四二度C(プロパン)及びマイナス四度C(ブタン)に保って液体の状態で貯蔵しているので、ガスによる圧力はなく、破裂の危険性はなくタンクの構造も最大級の地震・台風に耐えられるものになっている。また、ターミナル敷地境界線全域をカバーする放水砲(毎分三〇〇〇l)八基、三五〇mの水幕設備、大型海水ポンプ五台、大型化学消防車・はしご車・化学消化液運搬車各一台、タンクの周りには高さ約七mの防液堤、海岸線沿いに高さ約一mの流出油防止堤などを配備している。万一のガスもれに備えては敷地内一一〇か所にガス探知器を備え、各パイプには管理室から操作できる緊急遮断弁が設けられている。
 なお、波方ターミナルの立地条件としては、瀬戸内海のほぼ中央に位置し、県内(松山・菊間・新居浜)や山陽筋(岩国・倉敷)に市場をひかえていたこと、用地確保のタイミングが良かったこと、石油とともにLPGも五〇日備蓄をめざして基地化の動きがあったこと、などに加えて県、地元の協力体制も重要であった。

表4-17 太陽石油のあゆみ(1)

表4-17 太陽石油のあゆみ(1)


表4-17 太陽石油のあゆみ(2)

表4-17 太陽石油のあゆみ(2)


図4-7 菊間町の太陽石油(株)菊間製油所の製造工程図

図4-7 菊間町の太陽石油(株)菊間製油所の製造工程図


表4-18 太陽石油(株)菊間製油所の設備

表4-18 太陽石油(株)菊間製油所の設備


図4-8 波方町波方ターミナル施設配置図

図4-8 波方町波方ターミナル施設配置図