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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

八 波方町の字別の生業

 呼称の変更
       
 波方村は昭和三五年三月一日町制を施行するとともに、「はがたむら」の呼称を改め、「なみかたちょう」に変更した。これで越智諸島の伯方町(はかたちょう)と混同する心配がなくなった。町制施行日を伊藤義一著『愛媛の市町村史』昭和三七年には、昭和三四年一二月とあるが、町の記録では三五年三月一日となっている。
 明治二二年(一八八九)町村制施行により、旧松山藩野間郡の大字の波方・樋口・小部・森上・馬刀潟・宮崎の六か村を合併して波方村ができた。
 波方町の一一部落(集落)は、地形図でみると、樋口と養老は内陸部であるが、他は臨海村である。臨海村は半農半漁のように見えるが、実際は波方部落は海運業、小部部落は漁村である。いつ頃どんな要因で、こうなったのか、検討してみよう。


 海運の町波方

 波方町の大字波方は、表(4-21)の如く全世帯六八二のうち、その六八%が海運業である。次に海運業の盛んなのは、隣の大浦で(図4-11参照)、三八%である。この二つの集落が、古来海運業が盛んなのは、来島海峡に面し、来島水軍の子孫で、海上雄飛の伝統がある。近世から明治期には、波止浜の塩を運搬し、また「ドロ舟」は菊間へ波方土を運び、上方へ菊間瓦や素灰を積んだ。大正・昭和前期の機帆船時代には、上りは主に北九州や宇部の石炭を阪神方面に運び、帰路には雑貨や大阪ゴミを持ち帰った。ゴミは芸予諸島の柑橘畑の有機質肥料に供し、その代金で燃料代を補っていた。
 昭和三二年頃から機帆船が鋼船に替わった。昭和六〇年四月一日の波方船舶協同組合の資料をみると、内航船が一五〇隻(一二四社)である。うち一一九隻が雑貨を積む貨物船で、二六隻(二三社)がタンカーである。これは船籍を波方町に有するものだけで、外国に船籍を置くものが、このほか一〇〇隻ほどあるという。
 船主のみが波方の者で、内航船の船員は九州の人、外航船は韓国・フィリピン・中国人が多い。
 越智郡伯方町木ノ浦も海運業が盛んである。波方と伯方を比較すると、現在双方とも約二一万D/Wトンで、波方の方が船が大きく、主に一六〇〇トン級である。航路も伯方が東京以西に対して、波方は日本全国、東南アジアで活躍している。


 小部の漁村

 小部は波方町の西に位置し、一㎞余の直線砂浜海岸で、西風がよく当たる。小部の南入口に、高さ約四mの記念碑「小部開祖、木村新兵衛重基碑」(大正一〇年)と木村新兵衛の墓(慶長二年薨)がある。新兵衛は加藤嘉明に淡路の領主時代から召し抱えられ、その水軍はたびたび海戦に参加した。朝鮮遠征の功賞として、野間郡小部村地方の漁業権と、永代諸役の免除の特権を与えられ、この地に定住したという。これに関する文書が、文政元年(一八五四)の写しであるが、菊川圭次家に所蔵されており、波方町教育委員会発行(一九七七)の『ふるさとなみかた』に紹介されている。
 『なみかた誌』(一九六八年発行)の漁業の節をみると、江戸時代の『野間郡郷帖』に、小部村はじめ九か村の船数と家の軒数の資料がある。小部村は四〇軒で二八艘に対して、佐方村は一五二軒で二〇艘であり、波方村は一二二軒で六艘である。当時の舟は猟船が主である。小部村は幕末から漁民が増えた。それは広い漁業権を有して裕福なからである。明治三五年(一九〇二)には小部漁業組合の漁業者は二四〇名であった。
 昭和六一年現在、小部漁村の家並みは立派になり、若者は車を有している。正組合員一五九名、準組合員一六四名で、年産二~三億円の漁獲がある。昔は浜でいわしの地曳網を見たが、今の漁法は、えびこぎ・五智網・さわら流し網・文鎮コギ・刺し網と老人の一本釣りなど、年中稼いでいる。「来島どっく」など造船や、太陽石油、波方ターミナルなど企業の補償金があるので、小部漁協は賦課金を取らずにすむ恵まれた漁村である。一文字の防波堤ができ、西風を防ぐことができる。
 図4-12は小部の漁業権の区域と、漁場の魚名である。


 波方町の集落の特色

 表4-22の如く波方町は戦後三〇年間に、世帯の平均増加指数は一五〇で、どの集落もふえており、いわゆる過疎集落は皆無である。郷の如きは世帯数が三〇年間に一〇倍もふえた。岡はこの間の増加指数四二四である。世帯人口にも地域性がある。町平均は三・六人であるが、森上の四・一人に対して宮崎は二・六人である。男性率にも集落によって差がある。郷の五二%に対して、宮崎は四二%であり、町平均は四八%で男性が少ない。
 郷が断然ふえて、しかも男性が多いのは、郷には来島どっく・今治造船・波止浜造船・渦潮電気㈱などの独身寮ができたからである。岡には公営住宅がある。宮崎の世帯増加が僅かで、しかも男性が少ないのは、地元に働く場所がなく、若者は多く出稼ぎに出たからである。
 表4-23は一九八〇年のセンサスの字別の就業人口である。樋口と養老とは農業人口が多い。戦前は養老梨と称し、落葉果樹が盛んであったが、近年は桃と柑橘栽培農家がふえた。「海運と桃の町波方」と称している。昭和六一年現在、作付面積は梨一一ha、桃一七haに対して柑橘は八七haである。
 なお藤原純友の拠った宮崎神社の参道には、五〇〇mに及ぶ楊桃の並木道があり、樹叢は町指定の文化財である。半島は遠来の釣客が多く、梶取ノ鼻には森繁久弥の歌碑があり、瀬戸内海国立公園に含まれる景勝地である。

表4-21 波方町の字別生業の割合

表4-21 波方町の字別生業の割合


図4-11 波方町の区域

図4-11 波方町の区域


図4-12 波方町小部の漁業権

図4-12 波方町小部の漁業権


表4-22 波方町の集落別、世帯数・世帯人口・男性率(昭和61年)

表4-22 波方町の集落別、世帯数・世帯人口・男性率(昭和61年)


表4-23 波方町の字別就業人口(昭和55年国勢調査)(1980年)

表4-23 波方町の字別就業人口(昭和55年国勢調査)(1980年)