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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 越智諸島の造船業

 越智諸島工業の構造

 本稿にいう越智諸島とは、吉海・宮窪・伯方・上浦・大三島の五町をいう。この五町の工業構成を示したのが表5-51である。製造品出荷額は伯方町が圧倒的に多く、吉海町・大三島町がこれに続くが、全体に出荷額はきわめて小さく、輸送機械(造船)以外には吉海・宮窪の二つ町の窯業(石材加工)と今治や福山・三原などを控えて衣服(縫製)が若干みられる程度である。
 昭和五九年の出荷額が約三〇〇億円で本地域最大という伯方町は、その約九〇%を造船業と関連産業で占めており、造船、海運の町として島しょ部としては分配所得なども高い。しかし五二年の渡辺造船や、六一年の木浦造船の倒産のごとく、基幹産業の不安定で、四〇年代の最盛期、一五〇〇名を超えた造船関連従業者は、五三年に五〇〇名、五九年には三五五名に急減している。造船に次いで重要なのは衣服製造(縫製)である。最近福山市から相次いで進出し、大阪の商社と直接取引したり、独自の製品を生産して売り込む場合も出ている。最も大きい企業で従業員八〇名の工場もあり、周辺に下請内職を抱えながら次第に定着しつつある。造船業のため賃金水準がかなり高く、そのためUターン労働力を一部吸収している所もみられる。
 伯方町に次いで出荷額の大きいのは吉海町であるが、同町の産業構造を同じ島内の宮窪町と比較すると、造船業を中心とする製造業の比重が宮窪町に比べて高く、漁業の比重が農業を上まわる宮窪町に対して、逆に農業の比重が漁業を上まわり、今治市に近いことから商業機能が宮窪町に比してやや低いことが特色といえる。吉海町は造船業を除くと、石材加工、縫製、水産加工、酒造業などが主なものであるが、造船業の不振の影響は大きい。宮窪町は石材加工と水産加工で八〇%を占めており、造船業に見るべきものはない。
 上浦町と大三島町も同様で縫製や窯業(生コン)などが多少ある以外は、零細な小型造船所があり、地域住民にとって貴重な雇用先となっている。特に、従来は大三島町より製造業の比重の高かった上浦町では、五二年には四七億円の出荷額をあげ、その九〇%は盛部落にある常石造船・大三島工場で占めていた。同社は地元資本の西原造船所が四五年に倒産したもので、一度は広島県の常石造船が支援して再建に努めたが現在は放棄され、工業出荷額も全体で九億二〇〇〇万円に減少し、地元は最盛期二〇〇名を雇った最大の雇用先を失ってしまった。


 越智諸島造船業の地域的展開

 越智諸島の造船業は海運業と密接に関連しながら、主に昭和三〇年代以後に発展したものが多い。特に中心をなす伯方町の海運業は、大半が内航船であるため、三〇年代に阪神~九州間の石炭輸送用の機帆船を鋼船化する過程で、中小造船所が伯方町と周辺の島しょ部町村に誕生し、拡大していった。特に昭和七年に築港工事を開始し、一四年に完成した木浦港は、瀬戸内の中央に位置する交通位置を生かした海運の基地のため、これを囲む形で、村上秀造船・伯方造船・木浦造船が立地している。いずれも五〇〇〇トン以下の内航船、近海向け中小型船の建造能力しか持たない。
 このため、海運・造船不況をまともに受けて、六一年一月に木浦造船(伯方町木浦)が倒産した(写真5-24)。五二年の造船不況以来、島しょ部の中小造船所でも多くの造船関連企業の業績悪化が表面化しているが、伯方町内部でも、五二年に同町最大の二万トンの船台をもつ渡辺造船(伯方町伊方)が倒産し、目下、今治造船の支援を受けて再建中である。他にも吉海町の大島ドックも五三年に倒産し、現在は波止浜造船の一〇〇%子会社として修理専門の工場になって再建中である。同工場は、波止浜造船の買収前は地元出身で今治の繊維商が経営する大島造船がその前身で、機帆船から鋼船建造を行っていたが、波止浜造船が買収後二万トンの修繕ドックに改造した(写真5-25)。従業員も最盛期二〇〇名もいたが、今治からの通勤者も含めて四〇名程度に減少し、雇用面の影響は大きい。これら以外に大きな雇用力のある企業がないことは表5-51から明らかである。

表5-51 越智諸島の主要工業統計

表5-51 越智諸島の主要工業統計