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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 伯方島の海運業

 海運業の地位

 「愛媛船主」と呼ばれるほど海運界における愛媛県の勢力は強大であるが、その中心となるのが越智郡の波方と伯方である。とくに内航海運において伯方地区の役割は大きく、内航現有船腹量の全国比で二・九%を占めている(表5-60)。
 伯方地区の組合所属内航海運業者は、一一一業者全て内航船舶貸渡業者であり、中央の運送業者の支配船腹として運航している。
 伯方町財政の法人税の九五%は海運業からのものであり、船主・船員、造船業などの関連を考えると、島のほとんどの家庭が、海運と関係した仕事で生活している。


 発達過程

 伯方海運の歴史を考えるとき、まず登場するのが、中世の村上水軍である。来島・能島・因島の三島水軍はそれぞれ、来島海峡、宮窪瀬戸・三原瀬戸の瀬戸内海海上交通の要所をおさえていた。現在の伯方の進取的気性は、村上水軍以来受け継がれたものであろうか。
 北浦には今治築城のとき石材の運搬をした石船稼ぎがあったが、伯方の海運の発達は、まず製塩業との関係においてとらえることができる。伯方島には、今治藩が力を入れた瀬戸浜・古江・北浦などの塩田があった。古江塩田の築造の際に資材運搬にあたった船のうち二〇隻が上荷船として、特権を与えられた。底の浅い船で、沖合いの本船までの塩の搬出などを手がけた。戦前には三〇トンほどの塩運び船があり、四一浜の製塩業者からの塩運びと、燃料としての石炭運搬などを行っていた。
 明治九年(一八七六)に塩田が個人所有されると、浜旦那とよばれる地元有力者が活動を始め、「北まい通い」(北前船)に加わっている。この船は和式帆船で、伯方の塩を積み、下関から日本海に入り北陸で塩を売り、米を積み込み北海道でその米を売り、太平洋を回って上方で雑貨を仕入れ、伯方に帰ってくるという日本一周航路である。伯方では田窪七次郎が住栄丸を造って、島民として始めて、就航している。明治二〇年(一八八七)には五~六隻を数え、同三〇年には木浦船舶合資会社が設立されている。
 県下で最初といわれた機帆船は明治末の日光丸らによって開始された。機帆船興隆は、大正初期から戦後の昭和三〇年頃まで、瀬戸内海沿岸の工業発展と対応している。北九州の若松港から阪神工業地帯への石炭運搬において、伯方はその中間に位置していたが、なんといっても新居浜の工業発展との関係が深い。新居浜の土地造成の際の土の運搬から、住友関連の貨物運送契約が着実に伸長し、工業製品としての肥料や硫酸の運搬、四阪島の鉱石運搬などに深く関与した。写真は大正末期の帆船であり、こうした船に焼玉エンジンをつけて機帆船ができあがった(写真5-28)。
 続いて伯方の海運業が発展するのは、昭和三〇年頃から機帆船に代わって鋼船が登場してからである。昭和二六、七年頃波止浜が最初に、三〇年には波方で、そして三一年には伯方に新造の鋼船が誕生した。伯洋汽船の三五〇G/Tであり、翌三二年には阿部国夫の日鮮丸六〇〇G/Tが完成している。日鮮丸の場合は、当時三隻の機帆船を所有していたが、四〇〇トンの新造機帆船の船価が五〇〇万円の時代に、延べ払い制度を利用し、建造費三六〇〇万円で新造された。
 機帆船から鋼船への転換は、地域によってかなりの差があった、中島町などのように、地元のみかん輸送という安定したカーゴがあるところでは鋼船化が遅れている。
 昭和三〇年代前半鋼船化へ最も早い反応を示したのが波方であり、次いで昭和三〇年代半ば、伯方で鋼船建造ブームがおこった。おりしも伯方では地元の主要産業としての製塩業が斜陽化し、代わって造船業が確立することになった。
 鋼船化が急激に進展した要因の一つは、荷主・オペレーターの選択が、戦前からの海運業先進地域としての阪神のオーナーを敬遠し、波方・伯方の地方船主との結びつきを強めたことであり、もう一つが鋼船建造における「延べ払い」制度であった。「愛媛では船主が船を造るのではなく、造船所と銀行が造った」とまで表現されている。
 鋼船建造のピークは昭和三九年である。「内航海運業法」・「内航海運組合法」の内航二法では、運航業・回漕業と貨物取扱業及び貸船業を分離さし、最大の眼目である内航適正船腹量と最高限度量を決めたので、スクラップ船のいらなかった昭和三九年一二月「かけ込み建造」が行われた。伯方では一気に二〇隻の新造船が誕生しており、こうした鋼船移行の先取りが、「愛媛船主」の名を全国的にもクローズアップさせるきっかけとなった。
 和式帆船から近代的汽船に一気に変化した阪神の先進海運業の発展に対して、伯方の場合は和船時代より機帆船時代、小型鋼船時代というローカル船主の発展方向を示してきたが、昭和四〇年代の近海船進出、五〇年代の外船進出と、その進取の精神はとどまるところを知らない。


 経営の特色
      
 内航海運の組織には一〇〇〇G/T以上の鋼船により、内航運送業または取扱業を営む内航輸送海員組合があるが、伯方にはこの業者はいない。伯方の場合は、内航資格を有する貨物船一〇〇G/T以上を所有する業者によって構成されている。全日本内航船主海運組合に七〇業者が加盟し、油送船により内航運送業と貸渡業を営む業者による、全国内航タンカー海運組合に四一業者が加盟している(表5-61)。昭和五一年には一七〇業者あったものが昭和六〇年には一三一業者と減少しており、長びく海運不況に耐えることができず転廃業が多くなっていることを示している。法人船主が七〇%を占めているが個人船主も三〇%を占め、規模の格差がみられる。とくに「一杯船主」と呼ばれる一隻所有が八三業者(七四・八%)と多い(表5-62)。伯方地区の大手船主としては、敷島汽船(田窪小二郎)、伯洋汽船(山内信広)、日鮮海運(阿部国夫)などであり、統計には出てこない外航船の所有を含めると、いずれも一五隻程度の船舶を所有している。一経営者が会社を別にして裸用船にしている場合もあり、会社規模を大きくさせず分散する場合もみられる。一一一業者の地区をみると、貨物船・タンカーともに木浦・有津といった旧東伯方地区に業者が集中し、これらの二地区の貨物船・タンカーの保有業者数は八〇で全体の七二・一%を占めている(表5-63)。
 用船先の特徴をみると伯方地区の場合、中央オペレーターとの結びつきが強いのがわかる(表5-64)。そのためか経営も安定している。伯方船主の気風としては、マイペースに撤した堅実経営であり、長年船を持ち続け、古くなってやむを得ず手放して船齢の若い船を買船するという場合が多いという。他地区では有力船主に、ホテル経営をはじめとした多角経営が見られるが、伯方の船主にはそれがみられない。伯方地区の鋼製貨物船八七隻中船齢一二年以上の老朽船は三〇隻(三四・五%)であり、これは小型船に多い。本来なら省エネ船・近代化船に代替建造されるところだが、長びく内航海運不況による用船料の低迷から、代替建造ができない状況にあるといえよう。
 一杯船主の零細業者では家族労働でまかなわれることが多く経営は苦しい。中小業者においても、地縁・血縁に頼ることが多いため、近代的雇用市場として発達する余地が少なく、労働組合である全日本海員組合への加盟も少ない。地元の大手業者の場合は用船先で確保したり、或いは長崎・高知・下関など、もと漁船乗組員が多いようである。


 伯方海運業の動向

 近海船に占める愛媛のウェイトは非常に高く、全体の三〇%に達するといわれているが、この近海船の多くは、伯方や波方など、越智郡の有力船主によって所有されている。伯方地区の場合、南洋材の需要、特にインドネシア材の需要が急増した昭和四〇~四四年に船舶建造が急増している。船舶供給が追いつかなかった中央オペレーター筋が、内航有力船主に近海船(四〇〇〇~八〇〇〇トン)の建造を勧誘し、伯方の有力船主も、高い傭船料を狙って極めて積極的に近海船進出を果たした。最近は市況の変動により就航区域が変わる場合が多く、近海船も遠洋小型船と称され、加えて外国用船が増加し、その所有形態は複雑でこれらの船腹量を把握することは困難である。とくに昭和四〇年代盛んであった近海船も五〇年代になると半減し、外国用船経営に重点が移っている。聞くところによると、伯方地区の外国用船は二〇〇隻に近い隻数が保有されているらしいが、定かではない。労務対策や円高対策など難しい局面にあって船籍をパナマに置いた、いわゆる便宜置籍船の保有が多くなっていると思われる。
 昭和三〇年代の小型鋼船建造、昭和四〇年代の近海船の建造と伯方海運業の発展と対応して大きく成長した地元造船業も、海運不況の中ではそれ以上の不況にあえぐことになる。延べ払い方式の建造は造船業経営を直接に圧迫し、昭和六〇年の一月には木浦造船が倒産のやむなきに至っている。

表5-60 内航現有船腹量と伯方地区組合所属船腹量の比較について

表5-60 内航現有船腹量と伯方地区組合所属船腹量の比較について


表5-61 伯方地区組合別、船種別業者構成

表5-61 伯方地区組合別、船種別業者構成


表5-62 伯方町の所有隻数別船主構成

表5-62 伯方町の所有隻数別船主構成


表5-63 地区別内航船舶保有業者

表5-63 地区別内航船舶保有業者


表5-64 主要用船先及び隻数

表5-64 主要用船先及び隻数