データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

八 大三島の集落

 大三島の集落立地の特色

 芸予諸島の中心地に位置する大三島は、面積六五平方kmで、芸予諸島第一の面積を誇る。藩政時代には越智島とも呼ばれ、越智諸島の中心であったこの島には、松山藩領の一三の村が成立していた。現在大三島町に属する肥海・大見・明日・宮浦・台・野々江・口総・浦戸・宗方、上浦町に属する盛・井口・甘崎・瀬戸の諸集落がそれである。これらの藩政時代の村は明治二二年(一八八九)の町村制の実施に伴い、鏡村・宮浦村・岡山村・盛口村・瀬戸崎村の五か村に編成がえされ、さらに町村合併促進法の適用をうけ、昭和三〇年に大三島町・上浦町が誕生した。
 藩政時代の一三の村は、今日も大三島町・上浦町を構成する集落であり、住民自治の単位となっている。これらの集落は臨海部にひらける小平野を背景にして立地し、一〇〇~三〇〇戸程度の集村形態をとっている。大三島は元来漁業を営む集落は皆無であったので、多くの集落は海に面した平地にありながら、海岸から少し離れた山麓ぞいにその本拠のあるものが多かった。


 集村盛の生活

 大三島の北東部に盛の集落がある。この集落は昭和六〇年現在三七八戸の規模を誇る。集落は南西から北東に緩傾斜する隆起扇状地上に大集村をなして立地し、住民は元来農業を生業としてきた。
 盛の集落に関しては、盛小学校長の森光繁が教員と共にものした『盛郷土読本』が昭和七年に刊行されている。この読本は当時の盛の住民の生活誌をあざやかに描写しており、文部省や地理学会から郷土研究と教育の記念塔として高く評価された。同著には盛の集村についても言及されており、その形成要因として、①中国地方からの移住民が一致団結して便益を得るため、②海賊や航海の無頼の輩からの略奪を防ぐため、③瀋政時代の一畝前制度という土地割替制度による制約、④集落立地上の適地、の四点を指摘している。
 盛の集落内には、現在も辻ごとに辻井戸とか村かわと言われる共同井戸が見られる。これらの共同井戸の所在地を見ると、その多くは集落の西側を流れる竹下川ぞいか、その分流の跡と思える地点にある。竹下川は盛の領域内では最も水量の豊かな川であり、現在の集落立地点が、飲料水を取得する上に最適地であったことがわかる。集落はこの共同井戸を中心に大集村を形成していたといえる。共同井戸は昭和七年頃には集落内に一一個あり、一つの井戸を三五戸程度で利用したという。井戸の深さは八~一〇m程度にも達するので、昭和の初期までは個人で井戸を掘さくすることは困難であった。井戸の管理は利用する近隣農家によってなされ、夏の七夕の日に井戸掃除が行われ、水神祭がなされた。個人井戸の掘さくが盛んになったのは昭和一〇年頃からである。掘さく作業はこうろくと言われる労力奉仕でなされ、集落の各戸は井戸側を構築するための石を山で拾い集めて、一荷提供する義務があった。井戸掘りは専門の職人によってなされたが、その手伝いは親戚のこうろくでなされた。この集落に井口から簡易水道が引かれ、住民が水不足から解放されたのは昭和四七年以降である。
 共同荘戸も個人井戸も蓋をしていなかったが、これは防火に対する備えであった。第二次大戦前の盛の民家はほとんど麦わら葺であり、家屋が軒つづきとなっているこの集落では、防火に対する備えは必須の条件であった。水不足のこの集落では、昭和の初期には風呂のある家は三〇%程度であったが、その風呂は母屋とは別棟になっていた。これもまた防火に対する備えであった。
 盛の集落には多くの姓があるが、同じ姓の家は一つの本家から分かれた同族である場合が多い(図5-47)。同族は冠婚葬祭や農作業などの手間替えの組織ともなった。第二次大戦前には本家・分家間には年頭祝いがあり、元且には分家は本家に集まり年頭の挨拶を行う。これに対して翌日から本家の分家に対する返礼がなされた。男四一歳の厄年の年祝いや、子供の誕生祝い、家の新築の祝いごとも同族間で盛んに行われる。またこの集落では昭和三〇年頃まではほとんど集落内婚であり、本・分家以外に姻戚関係の親戚も多く、狭い集落内に親族の網の目が濃密にはりめぐらされていた。
 住民が密集して居住することは共同生活には便利であったが、集落と耕地の間の距離が離れ、営農上は不便であった。盛の耕地は昭和四〇~五二年の間の開拓パイロット事業でみかん園二〇haが開墾されるまでは、水田六二ha、畑一一二haであった。畑は二反山の山麓に展開する標高一〇〇m以下の緩斜面にひろがり、水田はその緩斜面を刻む侵食谷にみられた。
 明治年間までの畑作物は冬作の麦と夏作の甘藷、それに麦と甘藷の間作として麦の畝間で栽培される大豆・小豆の三毛作であった。大正四年(一九一五)からは商品作物としてたばこの栽培が始まり、相前後して除虫菊の栽培も始まる。みかんは先駆的なものは昭和の戦前から栽培されていたが、特に増加したのは昭和三〇年代以降である。侵食谷に立地する水田は夏季に稲を栽培するのみの湿田であったが、灌漑水の不足に悩まされた。谷頭には溜池があり、それはその谷の水田を耕作する農民が選んだ谷頭の管轄下にあった。田ごしらえは通常梅雨の雨を利用して行ったが、七月上旬に至っても梅雨の見られない時には池の樋が抜かれた。水の配分は谷頭の配下にある水役の仕事であり、耕作農民が勝手に水路の水を水田に注ぐことはできなかった。溜池の水は田植えを行い、あと数回樋を抜くと払底したので、稲の栽培期間中の灌漑水は、各自の水田に掘さくされているタンポといわれる井戸水をハネツルベで汲み上げて灌漑せざるを得なかった。水汲みは夜明け前から夕方まで終日行われ、大変な重労働であった。
 集落から耕地まで遠いところでは四kmもあるこの集落では、弁当持参で農作業を行うことが多かったが、大正年間になって、たばこや除虫菊の栽培が盛んになって労働が強化されると、遠方の畑には農小屋が建設されるようになってきた。農小屋は縦三間に横二間程度の広さであり、ふだんは肥料や農産物の格納庫、昼食時の休憩所であったが、農繁期には宿泊所にもなった(図5-48)。農道の発達していない第二次大戦前には、各農家に農船があり、海岸に搬出された甘藷や麦は、そこから船で集落まで運搬された。


 古い習俗を残す盛

 盛の古い習俗を伝えるものに、昭和三三年までとり行われていた弓祈祷があった。これは旧正月の初めに盛八幡大神社の氏子の代表が、境内で弓を射ることによって、年占いを行うと共に、悪魔払いをする神事であった。この集落には祭りをとり行う一九のトウ組がある。トウ組は上と岡(下の忌言葉)に分かれ、それぞれの組には宿にあたる家が二軒あり、交替で宿元となる。旧正月の二日に一九人のトウ頭が神社に集まり、弓祈祷の日取りとオイテシュウと呼ばれる射手がくじ引きで選ばれる。くじを引き当てたトウ頭はトウ組内から射手を選任する。選ばれた射手は上・岡の各宿元に合宿し、そこで弓射の作法および、その後の当屋食の作法の伝授をうける。射手はこの間、毎朝川で水垢離をとり、外界との交遊を絶って身を浄めた。弓祈祷は旧正月の七・八・九日のいずれかの日に行われるが、はじめに大的に三〇タテ、次いで小的に三タテを射る。弓射の儀式が終わると、神主、氏子総代・部落総代、射手・矢ひろいなどで大祝宴が行われる。祝宴は小笠原流礼法にのっとって行われ、弓祈祷は若者の礼儀作法を身につける修養の場でもあった。
 盛はまた隠居制度の残る集落としても知られる。現在は二〇%程度の家に隠居制度がみられるが、第二次大戦前には各戸に隠居家があった。この集落では長男が嫁を迎えると、両親は次男以下の子女を率いて隠居家に移り、長男夫婦に家督を譲るのが習わしであった。土地は長男が七〇%、隠居が三〇%とり、生計を別にした。仁義と言われる各種の付き合いは本家の義務であり、家督を継いだ長男はこれに多くの出費を強いられた。
 大三島のなかでも他の集落から離れた交通不便な盛の集落は、その孤立性と集落内の共同体的な結合の強さから、この地方の古い習俗を近年まで残していた集落であるといえる。


 大見のむら川

 大三島町の北部に位置する大見も、盛同様むら川といわれる共同井戸を中心に開けた村である。集落はその中を流れる大見本川をはさんで、南北の両斜面に立地している。日向斜面をヒサシと呼び、日陰斜面をオンジと呼ぶ。耕地は、日照量に恵まれたヒサシの方で作物がよく出来るので、地価も高い。集落の立地点としても日照条件に恵まれたヒサシの方が好適であるので、昭和六〇年現在一三五戸に及ぶ戸数のうち約八〇%はヒサシに見られる。大見は土居といわれる五つの組から構成されている。土居では一か月に一回常会を開き、町の公報を配布したり、税金を徴収したりする。また土居は定期的に道路などを補修する土木工事の単位ともなっている。
 土居ごとには、むら川と呼ばれる共同井戸がある。その井戸の分布をみると、深さ三~四m程度で地下水の得られる大見本川ぞいに多く見られる(図5-49)。大見本川を離れるにつれて地下水位は深くなり、高い地点では八~一〇mにも達する。高い地点の共同井戸は明治年間から昭和の初期に掘さくされたものが多く、いずれも起源が新しい。これらの共同井戸は大見全体の出役によって掘さくされたという。昭和初期に掘さくされた下土居の高度一五mの地点にある共同井戸は、最も起源の新しい共同井戸である。地下水位まで八mもあるこの井戸を掘さくするに当たっては、大見の各戸から出役が徴発された。井戸側を築くための石は三kmも離れた鏡崎付近の海岸から農船で運ばれてきた。
 大正年間から昭和の初期にかけては個人井戸も盛んに掘さくされる。個人井戸の掘さくは集落住民のこうろく(労力提供)によってなされた。親戚は何日も労力を提供しなくてはならなかったが、他人は一日の労力提供でよかった。こうろくを受ける家では、その日の食事を提供することが反対給付であった。この集落のこうろくは井戸の掘さく以外では、家屋の新築や病人が出て農作業の遅れた家などにもなされた。
 共同井戸の利用は元来は土居ごとになされたと思われる。土居の境界が共同左戸のある大見本川であることはそれを物語っている。水汲みは婦女子の仕事であり、早朝や夕方桶を担って川ぞいの共同井戸から急坂を登って家路にと水を運んだ。各家庭の炊事場には水瓶があり、その水を利用して炊事をした。洗顔は、たらい一ぱいの水で全家族がすませるほど、水の節約にはつとめた。井戸の管理は利用者によって行われ、夏の七夕の日には井戸の水を汲みかえ、井戸掃除がなされた。共同井戸のなかで最も神聖視されたのは、奥土居の最も上手にある井戸であり、これを神井戸と呼んだ。祭のときの糯米を洗うのはこの井戸であり、女性は不浄のときにはこの井戸水を利用することはできなかった。大見の住民が水不足から開放されたのは、昭和三〇年に簡易水道が敷設されて以降である。


 井口の集落立地の移動

 井口は上浦町役場の所在地で、昭和六〇年現在六八九の戸数を誇る。この集落には井口本川・古戸川の形成した三角州平野が展開し、大三島の島内では最も水田面積の広い集落である。集落は集村形態をとっているが、盛・大見のように一か所に集中しているのではなく、山麓線にそって広い範囲に分布する。井口の集落は、北から里・森側・院生・坊・古戸・好味・戸板の七集落に分かれ、それぞれの集落の中に小組があり、大字井口全体では二六の小組が存在する。
 集落が三角州平野をさけて山麓ぞいに立地するのは、そこが高燥地であること、清冽な飲料水が得られることによる。三角州平野を形成した井口本川と古戸川は、明治年間背後のはげ山からおびただしい土砂が流出してきて、現在河床が七~八mも高い天井川となっている。大正一〇年(一九二一)井口小学校校長清水佳助の誌した『井口郷土誌稿』には、「河ノ堤防ノ下ニ住宅ヲ構ヘアルモノナク、危険至極ナリ、蓋シ如斯川ノ堤防ノ高クナレルハ山林濫伐ノ結果ニシテ……」と、天井川ぞいの三角州平野が水害の危険のために集落が立地できなかった様子を記述している。また『越智島旧記』には、井口には河川の決潰によって一五町四反歩の川成地があり、それが嘉永年間(一八四八~五四)の海岸干拓工事によって、井口浜新田五町八反歩、二本松新田四町歩、好味新田二町八反歩、林ヶ谷新田二町八反歩として、新田に生まれ変わったことが記されている。
 山麓線に立地する集落は清冽な飲料水が得られたとはいえ、各戸に井戸がうがたれていたわけではなく、昭和初期までは辻井戸といわれた共同井戸の水を利用した。これらの辻井戸の敷地はほとんど公有地であることは、共同井戸が古くから集落住民の共有物であったことを物語る(写真5-34)。各農家が個人で井戸を掘さくしだしたのは昭和一〇年頃からであり、簡易水道が利用されだしたのは昭和三〇年頃からである。現在辻井戸の多くは農業用水などに転用され、飲料水として利用されているものはあまりない。
 井口の集落は昭和三〇年に成立した上浦村(現上浦町)の役場の所在地であり、また、昭和三九年井口~三原、井口~忠海間にフェリーボートが就航し、中国路方面から大山祇神社の参詣者の上陸地となったので、近年集落の外延的拡大が著しい。市街化の著しい地区は井口本川と古戸川にはさまれた地区で、公共施設や商店、住宅などの進出が著しい(図5-50)。商店のなかには旧来の集落の住民が移動してきて営業を始めたものもある。この地区は従来湿田であったところであるので、一m程度の盛土を行って家屋を建設している。地価は市街化の始まる以前の昭和四三年頃には一平方m当たり一三〇〇円程度であったが、昭和六〇年には一万五〇〇〇円にと高騰している。


 大三島南岸の枝村

 大三島の南岸は断層海岸ともおぼしき急崖が連続する。直線状の海岸は舟の停泊に不便であり、耕地も得られにくいことから、集落の立地条件には恵まれていなかった。この直線状の海岸に西から藤の木・甲口・野々江坂・下坂・出走の五集落が立地するが、その規模は野々江坂を除いて二〇~三〇戸程度と小規模である。これらの集落の起源を調べてみると、明治年間以降近隣の集落から住民が移住してきて形成されたものであり、いずれも枝村といえる(図5-51)。
 藤の木は大字宗方に属し、その枝村である。明治三一年(一八九八)測図の地形図には宗方坂の地名があり、二~三戸の家屋が点在しており、開拓が緒についたのみの状況がえがかれている。住民は親村の宗方から移住してきたものが多い。農地改革前には、野々江・甲口の住民の土地所有が多く、その小作人からなる貧しい集落であり、農業よりは船乗りの多い集落として知られていた。
 甲口は大字野々江に属し、その枝村である。明治二五年(一八九二)頃に最初の入植者が入り、昭和六年一二戸となった。大二次大戦後三五戸程度あったが、現在は二一戸に減少している。入植者は宗方・野々江などからの者が多く、農地改革前には宗方・野々江の地主の土地所有が多かった。
 出走は大字瀬戸に属し、その枝村である。瀬戸から一km程度隔てるのみであるので、瀬戸からの通耕が多かったが、次第に住民が定着し、集落が形成された。明治三一年(一八九八)測図の地形図には、いまだ一戸の農家の所在も誌されていない。古老の話によると、大正初期には三戸の農家があったというが、この頃が集落の形成期であったと思われる。入植者は瀬戸からのみではなく、伯方島などからも移住してきている。農地改革前には瀬戸の地主の土地所有が多く、その小作人が多かった。昭和六〇年現在三三戸を数えるが、後継者は少なく、今後の戸数減少が予想される。


 大原の枝浦下坂

 下坂は大字甘崎の大原の枝村といわれ、江戸時代の末期から明治の初期にかけて先駆者が大原から移住してきて開いたものと思われる。明治時代には八軒屋とか甘崎の坂といわれたともいうが、明治三一年(一八九八)測図の地形図には下坂の地名が出ている。明治末期には一〇戸程度の農家があったという。大正年間には一六戸程度に増加し、第二次対戦中には疎開した者なども含めて、二五戸程度になっていたが、昭和三〇年代に入って戸数が減少、昭和六〇年現在では一六戸になっている。
 この集落は戸数の増加した大原の住民が、次・三男対策として農地を開墾したことに始まる。当初は大原からの通耕の形をとっていたが、山越えの道を片道六kmも通わなければならないので、次第に住民が定着したのである。大正年間にはまだ数戸の農家が大原から通耕していたという。
 下坂は親村の大原や口狭と比べると種々の点で集落の立地条件に劣っていた。その第一点は耕地を開くに足る平坦地に乏しいことである。耕地は海岸ぞいの標高五〇m以下の山麓緩斜面に展開するが、水田は皆無で畑のみである。背後の山地は急峻で耕地の開発の余地はない(写真5-35)。第二点は交通が不便なことである。昭和二七年頃に自動車道が瀬戸から伸びてくるまでは、山越えの小道が大原・口狭まで通じていたが、そこまでは徒歩で片道一時間半も要した。海岸は直線状で船の停泊には適さず、集落共有の船はわずかにみられる砂浜に繋留せざるを得なかった。第三点は飲料水の取得に不便であったことである。井戸水の得られないこの集落では、住民は谷川にタメという水溜をうがって、そこに溜った水を飲料水として利用せざるを得なかった。谷川には三つのタメがあり、近接した農家がここで水汲みをした。集落が山麓緩斜面を刻む谷川ぞいに並んでいるのは、この飲料水利用の便宜上であった。
 現在耕地の大部分はみかん園となっているが、みかん園化は昭和四〇年以降であり、それ以前は冬作の麦と夏作の甘藷、それにあわ・きびの自給作物が主として作られていた。大正年間からは商品作物の除虫菊やたばこも導入されるが、明治年間には菊間に瓦土を売るのが最大の収入源であったという。農地改革前には、耕地の多くは甘崎の地主の所有で、住民はその小作人として貧しい生活を強いられていた。
 昭和三五年以降の高度経済成長期にはいると、交通不便な下坂からは住民の離村が相次ぎ、現在老人世帯のみの家が多い。後継者が離村した最大の理由は子供の通学問題である。下坂から瀬戸崎小学校までは徒歩で一時間半も要したので、学齢期の子供を持つ後継者は小学校近くの口狭で新たに住宅を建設し、そこから子供を通学させるようになった。そして老夫婦のいる下坂へは自動車で通耕している。下坂の後継者で甘崎の口狭に住宅を建設しているものは六戸に達している。


 野々江の枝村野々江坂

 野々江坂は野々江の枝村であり、親村の野々江を本村といったり郷というのに対して、通常は坂といわれている。この集落は幕末に野々江村の庄屋の出入者、岡蔵が庄屋の馬を飼うために馬小屋を建てて移住したのが入植の最初であるという。明治維新以降、野々江からの入植者が増加し、明治一五年(一八八二)頃には一一戸となった。これらの入植者は野々江坂に耕地を開いて通耕していた者が次第に定住したものである。入植者は後には明日・口総・甘崎などからも入ってきて、大正年間には約三〇戸、戦中には疎開者も含めて八〇余戸にまで増加した。昭和六〇年現在は六四戸であり、大三島南岸に立地する枝村の中では最も規模の大きい集落である(写真5-36)。
 野々江坂には長さ五〇〇m程度の砂浜海岸があり、その海岸ぞいとその背後の山腹斜面が集落立地点となっている。集落の立地条件が親村の野々江などと比べて劣悪であるのは、下坂で述べたのとほぼ類似する。この集落も水田は皆無で、耕地は集落背後の山腹斜面を畑作として耕作した。飲料水は大正年間までは四つの共同井戸に頼ったが、海岸ぞいの井戸は塩分を含んでいたので、山麓ぞいの井戸が最も重要であった。砂浜海岸には明治末年小規模な突堤が築かれたが、農作物や肥料を運搬する農船は砂浜に杭を打って繋留し、港の条件には恵まれていなかった。
 農地は南斜面にあるので日照には恵まれ、昭和三〇年代になって盛んに栽培されるようになったみかんは、香りの高い品質佳良のものを産出する。しかしながら親村の野々江などと比べると耕地の傾斜がきつく、表土が薄いので、干魃の被害をよくうける。畑作物は明治年間以降、麦と甘藷、それにきび・あわなどの自給作物が主として栽培され、大正年間からはたばこ・除虫菊なども導入された。農地改革前には野々江の親村や、広島県忠海の地主の小作地が多かったので、一般に住民の生活は貧しく、次男以下は石工などに出稼ぎに行くものが多かった。現在の土地利用はみかん一色といえるが、みかんの価格の低迷から、集落外の土木工事に従事したり、造船工場に勤めるものが多い。下坂のように本村の方に再移住する傾向はまだみられないが、集落の立地条件が悪いので、将来本村の方に再移住する気配はみられる。

図5-47 上浦町盛のO家の分家と辻井戸

図5-47 上浦町盛のO家の分家と辻井戸


図5-48 上浦町盛の耕地と農小屋の分布(昭和6年ころ)

図5-48 上浦町盛の耕地と農小屋の分布(昭和6年ころ)


図5-49 大三島町大見の共同井戸と小組の境界

図5-49 大三島町大見の共同井戸と小組の境界


図5-50 上浦町井口の共同井戸と集落の外延的拡大

図5-50 上浦町井口の共同井戸と集落の外延的拡大


図5-51 大三島の親村・小村関係

図5-51 大三島の親村・小村関係