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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 大島の自然と歴史

 観光客の動向

 来島海峡をはさんで今治市からフェリーで二〇分の距離にある大島の玄関口は吉海町下田水港である。下田水港からは国道三一七号が北東に延びており、吉海町の中心である幸・八幡地区を経由して、約二五分のバス便で宮窪町の中心部と結ばれている。宮窪町へはほかに今治-尾道間の友浦寄港高速艇と、伯方島から二コースのフェリー便がある。また、本四架橋公団による伯方・大島大橋の建設が昭和五六年度から建設されており、それに伴う国道三一七号バイパスの建設も進んでいる。
 昭和五九年の入込観光客数をみると吉海町四万八六〇〇人、宮窪町三万四五〇〇人で七〇%近くが県内からの客である。共に海水浴・釣り客が多いが、吉海における島四国二六〇〇人、宮窪の花見客一二○○人、島四国一〇〇〇人に特徴がある。吉海町では日帰り客が多く、宿泊は三八%の一万八六〇〇人で、そのうち旅館・民宿利用は五六%である。宮窪町では五六%が宿泊客で、その六九%が旅館・民宿を利用している。宿泊施設としては、吉海町に旅館二(収容人員九二)、民宿三(同九〇人)、宮窪町に旅館二(同一〇〇人)、民宿四(同九〇人)がある。共に夏季において釣り客や海水浴客でにぎわう。


 主な観光地

 北部の念仏山は大島石の生産、南部の亀老山は村上水軍の根拠地、そして両者の中間には名勝八幡山があってそれらの周辺に史跡や自然美が散らばっている。主な観光コースとして次の例があげられる。

「大島めぐりサイクリングコース」
全コース約四〇km、自転車で約七時間、下田水港と宮窪町役場にサイクリング車が設置されている。
下田水港-椋名法南寺-大島ドック-福田福蔵寺-泊安産石-田浦かわちさん-余所国石切場-能島水軍水場-夫婦松跡-宮窪海南寺-宮窪水軍資料館-宮窪港-友浦宝筐印塔-友浦港-八幡山・藤崎古墳-名水軍神社-名高龍寺-下田水港
「水軍史蹟めぐりコース」
全コース約三五㎞、徒歩・特船・車利用で約六時間。下田水港-高龍寺-村上義弘公墓-水軍神社-原八幡神社-水軍資料館-能島城跡-能島水軍水場-宮窪港-証明寺跡-友浦宝筐印塔-友浦港-田中神社-下田水港
「自然に親しむハイキングコース」
全コース約一〇km、徒歩にて約三時間。下田水港-大島自然研究路-千年松跡(自然研究路終点)-名駒―下田水港
「八幡山」 大島のほぼ中央部に円錐形の美しいたたずまいをみせる八幡山はこの島のシンボルである。標高二一四mの山頂からの展望は格別で、瀬戸内海に散在する大小の島々を一望に納めることができる。国立公園の目玉の一つで、昭和一九年に文部省の史跡名勝に指定された(写真5-43)。
 八合日に巨大な天狗岩がそそり立っており、この巨岩の裾から弥生中・後期の土器がかなり出土しているほか麓には藤崎古墳その他の古墳群がある。山麓の八幡船で名高い大亀八幡神社には多数の出土器、武具、古文書などが所蔵されている。また、境内の樹林は国の名勝に指定されている。
 「高龍寺」 亀老山山麓にあり二つの丘陵にはさまれた谷間にしずかなたたずまいをみせ、周囲に高い石垣がある。開創は推古天皇四年隈嶽の霊地を開き千手観音を安置する島四国三三番の札所でもある。伊予水軍河野一八将の随一と称せられ、大島・来島・因島を領し、瀬戸内海各地の水軍を総覧した村上義弘公の菩提寺であり、同寺の南約一kmの奥院には村上義弘の墓と伝えられる宝筐印塔がある。境内は約一〇〇〇坪であるが、一隅には村上諸将の墓といわれる石塔群がある(写真5-44)。
 「水軍神社」水軍にちなんで舟形の祠を建立し、義弘公を祀りその遺徳をたたえている。境内入口の三基の塔は義弘公の愛馬を馬頭明神として祀っている。
 「田中神社」成務天皇五年(一三五)に建立されたもので、大島の一の宮といわれ、大三島の大山祇神社と同祭神で、村上水軍の氏神であった。水軍関係の宝物が多数残っている。
 「原八幡神社」 貞永二年(一二三三)の建立で、八幡神社であるが伊予水軍をたよって来島した新田義家、脇屋義春を新田神社として祀っている。
 「大島自然研究路」 自然に親しむハイキングコースとして昭和四七年に完成、延長一・八km、徒歩で六〇分、天然の景観と植物を満喫できる。展望台が三か所あり、第三展望台よりの景観はすばらしい。
 「能島城跡」 宮窪から海上約一km、大島と伯方島の中間にある鵜島に隣接して、ほぼ三角形の能島(標高三一m、周囲七二〇m、面積二・五ha)と属島の鯛崎島(標高二二m、周囲二四〇m、面積〇・七ha)がある。芸予諸島中、西国から畿内に通ずる内海の重要な三つの水路の一つで、しかも中央に位置して最短の航路であったことから、帆船時代には今日の来島海峡以上に重要な水路であった。このため中世を通じて、能島村上氏の居城として一大軍事基地が形成されていた。能島は江戸時代以降無人島であったため、今日まで城塞の遺構がよく残っており海上から眺めても島は三段になっていて、戦国時代の城郭の形式をみることができる。岩礁上には、木柵をめぐらした跡や桟橋跡とみられる約四六〇個の柱穴が残っている。昭和二八年には国指定の史跡となり、四八年には愛媛県教育委員会によって、水軍ゆかりの幸賀屋敷跡、證明寺跡、水場などとともに「能島水軍の里」が設置された(写真5-45)。
 現在本丸・二の丸・三の丸には桜の花が多く(昭和一〇年頃植樹)、桜の名所となっていて、落差二mの急潮が描く大渦巻と轟々ととどろく海鳴りの中での花見は格別で、花の季節には遠近からの遊客が多い。平常は定期船はなく、カレイから伯方へのフェリーに頼んで寄ってもらわねばならないが、四月上旬の花見どきには定期船も通い大勢の町民でにぎわう。
 「村上水軍資料室」 宮窪町は昭和五一年三月、中央公民館建設に当たって二階に水軍資料室二六八平方mを併設した。能島村上氏の直系である山口県屋代島村上家に伝わる水軍資料五一六点を、同家と共同保有することとなって常時展示することになったもので、家系図や古文書、武具等が多数保存されている。年間六〇〇人の利用がある。
 町役場とそれに隣接して中央公民館がある宮窪町の中心部は、周辺に村上水軍とかかわる史跡が多く「文化の里めぐり」コースが設定されている。
 また、島の周辺は内海随一の好漁場となっているため近年遊漁が盛んで観光の一翼をになっているが、宮窪はその中心であって、海岸近くには遊漁客相手の民宿がある。
 「大島石」 大島の北海岸、余所国から早川にかけて、海岸のいたるところに採石の山積みが並んでいる。そして、近くには加工場が大きな響きを立てている。大島の北部にあって、山頂の展望台からの眺望の美しさで知られる念仏山一帯は、大島の産業のトップを占める大島石の産地で、五つの大企業をはじめ五〇の業者、四〇〇名近くの採石関連就業者を数える。年間数万トンから一〇万トン近くの石材が切り出され、現在では山頂近くまで深く採石されている。五〇か所ほどの採石場(丁場)があり、中にはジェットバーナーを使用して大規模な採石が行われているところもある(写真5-46)。
 販路は県内のほか、広島・岡山・島根・鳥取・大分・宮崎・熊本・鹿児島・愛知・岐阜・京阪神にひろがり、従来の石船による輸送から、フェリーができた昭和三八年頃を境に、現在ではトラック輸送に代わってきた。大島石はほかに、青みかげ、大島みかげ、宮窪みかげ、余所国みかげと呼ばれることもある。
 「伯方・大島大橋」 余所国の東、大島と伯方島の間の宮窪瀬戸がぐっとせばまったところに、本四連絡橋今治-尾道ルートの三番目の橋が建設されている。昭和五六年三月に着工され、六〇年一〇月八日大島大橋(見近島-大島間)のパイロットロープの張り渡しが行われた。つり橋を支える主塔(九一m)が見近島に六〇年四月、大島側に九月末に完成、ケーブル架設工事を待っていたもので、今後メインケーブル、橋桁などの工事を順次行って六二年度に開通する予定である。大島大橋は大島と見近島間の宮窪瀬戸をまたぐ八四〇mのつり橋である。大島側は宮窪トンネルに接続し、見近島からは桁橋の伯方橋(三二六・四m)で伯方島に結ぶ。基礎部分を加えた伯方・大島大橋の全長は一二三〇m、同橋工事の取り付け道路を含めた総延長は四五〇〇mで、総事業費は三九○億円である。