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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

第一節 概説

 上島諸島は内海の離島であって、瀬戸内海の中央部、東の備後灘と南の燧灘の両海域に囲まれ、今治から福山市の鞆に至る北東方向に走る断層線に沿った島々である。上島という総称は、京に近い上方に位置した島という意味で、愛媛県内では最北東部の辺境にあり、広島県の因島や生口島などとは一衣帯水である。
 行政上、上島諸島は越智郡に属し、弓削町(昭和六〇年国勢調査人口五七五七人)を構成する弓削島・佐島・豊島、生名村(同二九九九人)を構成する生名島と無人の鶴島・平内島、岩城村(同二九三三人)の岩城島と無人の赤穂根島・津波島の一町二村が狭義の上島諸島である。これに、弓削島の南東方海上約三〇㎞の燧灘に浮かぶ魚島・高井神島その他三島の無人島からなる魚島村(同四二三人)の魚島群島を加えて広義の上島諸島としている。
 上島諸島のなかで最も大きな島は弓削島(八・八一平方㎞)である。ひょうたん形をしたこの島の北の上弓削と南の下弓削の、二つの島をつないだトンボロ(陸繋砂洲)を利用した揚げ浜式塩田のあったところが弓削の中心地である。弓削という名の由来は諸説があるが、古くは久司の浦と呼ばれたことがあり、物部氏の一族だった弓削部の人々が移住したことから弓削の名が起こったともいわれる。この島は、内海屈指の塩の産地として知られ、すでに中世に塩田があって、京都の東寺の荘園でもあった。また、対岸の因島に拠る因島水軍と愛媛県の大島と伯方島の間の小島能島の水軍の勢力消長下にも置かれていたし、瀬戸内海航路として、とくに中乗りルートの要地でもあった。この伝統を背景に運輸通信業に従事する人が比較的多く、商船高専もある。近世において、弓削島と南の佐島、さらに魚島などは松山藩の分家となった今治藩に属し、北の上弓削にある田頭家は、参勤交代のとき今治藩の本陣であった。下弓削の低地の東海岸には、法皇松原とよばれる砂浜海岸があって、夏は海水浴場としてにぎわいをみせる。この松原には国民宿舎と「弓削の道鏡」を祭った弓削神社がある。
 生名島は上島諸島のなかで最も開墾が進んだ島で、耕地化率は四〇%を超え、水田もあったが今はみかん園が最も多い。西海岸には塩田が開かれ、その燃料伐採のためハゲ山が目立った。この島は、海賊の拠点で伊予の村上水軍の支配下にあったが、約三六〇年ほど前に広島県御調郡中庄村から八世帯が移住して農業を始めたといわれる。藩政時代は、西の岩城とともに松山藩領となり、しかも流刑地であった。明治の初めに漁民が忽那諸島へ移住したため漁業は振わなくなった。生名村は因島の近郊住宅地化している。これは農・漁業がじゅうぶん発達しえなかった島の人々にとって、明治四〇年(一九〇七)に因島に大阪鉄工所が造船所を建設し、のちに日立造船因島工場へと発展したことが、零細な農家や出稼ぎ者の勤め先へと変わったことによる。生名村立石港と因島市土生港間約三〇〇mはわずか五分余で村営フェリーが一日に四五往復している。
 上島諸島の最西端に津波島・赤穂根島・岩城島の三つの島が南北方に並んでいる。上島諸島で弓削島についで大きい岩城島(八・七九平方㎞)は楕円形で三六九・八mの積善山は上島諸島で最も高い山である。積善山は古生層の砂岩や粘板岩からなり、南山麓には岩城村の大部分の人々が集村を形成している。北部は傾斜もゆるやかで河川もあり、水田も残り、みかん園やかつてはゼラニウム畑が開かれていた。赤穂根島・津波島はともに無人島であるが、岩城島からの農船による出作り耕作がなされている。岩城島の歴史は比較的古く、九州に太宰府が置かれてから瀬戸内海東西航行の港として発達したといわれる。当時の港(宮浦)は島の北部で小集落であった。康平六年(一〇六三)に源頼義が伊予守になって国中に七社を創建したその一社が、岩城港の東の丘にある岩城八幡宮とされている。また西部には永享三年(一四三一)建立といわれる国の重要文化財祥雲寺観音堂があり、その他文化財が比較的多いことは、昔からの中乗り航路の港として文化伝播の影響をうけてきたことを物語る。中世には水軍の居城も建設をみたが、近世では松山藩となり、岩城港は藩主参勤交代時の泊地として栄え、松山城下の三津港との間に早船があった。当時の本陣は島代官三浦家で、町集落全体が本陣はじめ往時の物資集散地としての商家のたたずまいを残している。村の主産業はみかん中心の果樹農業やタバコ、芋菓子生産と昭和一六年創立の岩城造船(三一年に今井製作所)をはじめ、因島の日立造船所の下請・関連の造船業である。また、日立造船へ通勤する人も多い。
 魚島群島の島々の地質は、石英片岩や片状閃雲花崗岩などからなる。魚島村は有人の魚島(一・四六平方㎞)と高井神島(一・四三平方㎞)と無人島の江ノ島・瓢箪島などからなる。その居住の歴史は明らかでないが、古くは沖ノ島とよばれていたし、またタイの漁期をウオジマと称したほど近世からタイ漁で知られてもきた。魚島の亀居神社には、鎌倉後期の宝篋印塔があり、室町期は村上水軍の出城として、その遺構が各所にある。近世は今治藩に属し漁業が盛んであった。また、重罪人の流刑地となっていた。漁業は明治・大正期の遠海出漁、現在のエビ漕網、磯建網など島の中心産業である。魚島村の近代化は、昭和三二年の離島振興法の指定によるところが大きい。大正一二年(一九二三)の自家発電の開始以来、電気の導入は昭和四三年に弓削島からの海底ケーブルで実現し、島の生活様式を一変させた。四五年新庁舎完成、四八年診療所完成、五一年地下貯水タンクを備えた集会所完成、五八年開発総合センター完成と近代的な施設の完成をみた。内海離島では名実ともに隔絶性の強い魚島村であるが、弓削港へ四往復の村営航路をはじめ、今治市へは渡海船が一往復あり、六〇年八月からは高速艇が新居浜と福山ヘ一便ずつ寄港しており、交通の便は良くなっている。
 弓削・生名・岩城の町村では、因島市の造船業関係および地元に立地しているその関連工業に従事する者が多く、因島市の通勤圏内にあり、日常生活でも因島市への依存が強い。しかし、昭和六〇年末からの第二次造船不況で規模縮小または廃業する企業が多く、人口減少に拍車がかかりそうである。