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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 魚島の漁業

 たい縛網

 江戸時代より魚島近海はたいの好漁場であった。漁期間中には今治藩より、鯛奉行が来島して、幕府献上品としての「干鯛」・「塩辛」を製造している。「ウオジマが来た」という言葉が瀬戸内海の各地や大阪の魚市場で使用されることについて、村上節太郎は『地域』(昭和二七年)の中で「魚島村の周縁にたいの最もたくさん集まる時期をいう言葉であり、盛漁場の地名に起因する。ウォジマの時期は八十八夜前後で、詳しくいえば八五日~一二〇日間であるが、そのうちでも一〇〇日~一一〇日までが最盛期である」と述べている。
 外海より産卵のために、一方は紀伊水道、他方は豊後水道を通って瀬戸内海に入って来るたいが、魚島周辺に集中するのであり、この時期の鯛が桜鯛と呼ばれ、味が一番良い。
 魚島本島の東方約四㎞のところにある江ノ島の吉田磯という暗礁は、たいの中心漁場であるが、大林嘉久吉は『魚島漁業史考』(昭和一八年)で、吉田磯の由来を次のように述べている。「徳川時代島津藩吉田丸二上納米満載江戸へ航行中、吉田磯二座礁沈没シタルニ、腐敗セル米ヲ餌トシテ鯛ノ大群飼付タルヲ以テ吉田丸二因リテ吉田磯卜命名セシモノナリト云フ(後略)」以前より船曳葛網の付属網代であった箇所に、明治四年(一八七一)より縛網で大漁をなしたという。『愛媛県誌稿(下巻)』にも鯛飼付漁業として記載があり、明治三一年より一五年間の網入回数及びその時期、漁獲量・漁獲金額が表示されている。たい縛網の船団組織、操作についても説明がなされている。ここで注目されるのは吉田磯の飼付漁業権が村株として経営され、競争入札されたことである。魚島には明治九年(一八七六)には、九統のたい縛網が存在していたが、大正八年には三統となり不漁がつづいた。華やかであった村株の吉田網は、明治三〇~四〇年代には広島県の網元の入札で好漁が続いたが、同じ頃、広島県の桝建網が江ノ島付近に入漁すると、漁獲も減少した。大正一五年の一網二〇〇〇尾が華やかさを示す最後となった。
 聞き取り(昭和五八年、米原健一、八〇歳)によると横井玉吉が、吉田磯をオト(入札)して五年間経営したが、その船団は葛船二隻一〇人、イカリ船二隻八人、小ドリ船一隻五人、沖合親方船七人、網船二隻三二人の大部隊で、ほかに仲買人の出買船もいた。配分は網元四に対して村が六であり、網元は四分の中から、米代、醤油代、酒代の負担があり、わずか五〇~六〇日の漁期で、網の修理に六~七〇〇人役を要したという。村の網子の賃金は、米一升が二二銭のとき、責任者で一円五〇銭、そうでない者が一円二〇銭であった。六月半ばの漁期が終わると、その後の吉田磯は競争入札で、一〇月頃まで操業ができたという。成績は芳しくなく、米原氏は朝鮮出漁に出かけたという。
 村上節太郎によると燧灘は漁期が短いので、伊予灘に比べて、一時期に全力をあげてやる。漁期の間、夜は島陰に停泊して自宅に帰らず、食糧は運搬船が補給するという。網元の儲け、損の差が大きい。伊予灘への他県の入漁は少ないが、燧灘には広島・香川からの入漁も多い。たい縛網といっても漁期の後半はさわらが多いという。
 植田旅館主植田広所蔵の掛軸は、吉田磯のたい縛網漁業の様子を伝えてくれる。魚島では昭和四年にたい縛網業が消えている。

      
 朝鮮出漁
      
 愛媛県の沖合漁業・遠洋漁業化は、韓国出漁という形で出発した。しかしこれは沿岸漁民の出稼漁業、通漁ともいうべきのものであった。『愛媛県誌稿(下巻)』には「遠洋出漁成績一覧表」があり、愛媛県における魚島の占める役割は大きい。大正三年(一九一四)の県全体の出漁人員一四〇九人のうち六六〇人が魚島村である。当時の県外出漁が魚島を中心に行われたことを物語っている。他地区のものが、釣・延縄が多いのに対して、魚島はいわし縛網とさば巾着網が主体であり、巨済島をその根拠地としていた。
 『魚島漁業史考』によれば、韓国海域への出漁は明治二六年(一八九三)頃から行われており、明治三〇年には横井玉吉が移住し、いわし網漁業を経営している。明治四〇年ごろには大林善作を中心に魚島組は縛網を経営し、長崎県人を中心とするさば巾着網業者と雌雄を競い合ったという。明治四五年には有永長次郎発起により魚島組合資会社となったが、大正三年には個人経営となっている。こうして、約五〇年間にわたって操業されてきた韓国海域の出漁も終戦とともに廃絶した。
 当時の出漁の様子を聞くと、魚島を出発して巨済島に到着するのに六~一二日間を要している。一二~二〇人乗りの帆船で、四挺の艪を交代でこいだという。さばは旧暦の三~五月と九~一一月の二回、漁期があった。いわしは一年中漁獲でき、現地で煮干に加工した後、仲買人を通じて下関に出した。操業がすみ帰途につくのは、旧暦の一二月一四日から二〇日頃であり、西風を利用して三日間で帰ったという。
 和船で玄海灘を乗りきって漁場におもむいた魚島の人々の漁業意欲と、進取の気象は十分に誇り得るものであった。

       
 漁業の現況
       
 魚島は現在も漁業の島である。昭和五九年一八六世帯のうち、七五世帯が漁家であり、うち五五世帯が漁業専業である。
 昭程六〇年の漁業種類別水揚量では、定置桝網が一番多く、戦車漕が続いている(表6―16)。定置桝網漁業は、第二種共同漁業権の主体をなすもので、主な漁獲物はたい・すずき・はげ・いか・さわらであり、戦車漕は底曳網の許可漁業で、魚島の仲合漁業の中心となっている。漁獲物は白さ・こち・まて・めち・えびなどである。
 魚島の中心漁業はこうした小規模の定置網漁業及び小型底曳網漁業であり、水揚量は漸減している。
 特定区画漁業権ののり養殖は、次第に増加し昭和六〇年には一七〇〇万枚を生産し、水揚金額も漁船漁業の水揚金額とほぼ同額である。ただしのり養殖の場合は電気代、水道代、機械の設備投資等の多大の必要経費がかかっており、経営は苦しい。
 桝網は春秋二回の漁場区分がなされ、経営者は組合のくじ引きで張り込む箇所が決定される。多い人で六箇所少ない人で二箇所である(表6―17)。四月に張り込みが開始され、水深二〇~三〇mの海底に沈めた桝網と多数の碇によって固定する。張り込みから六〇日後に引揚げて魚を捕る方法である。明治三六年広島県人が江ノ島ハザマ漁場へ入漁したのが最初であり、当時の入漁料が五一〇〇円であった。その後大林勇松、大林芳一、森山六三郎、米原宮松、細川市松等によって操業されたが、昭和一七年の漁業貸付更新期に村民の希望によって桝網組合が成立している。桝網経営に参加しているのは、魚島の漁業者であり、高井神地区に桝網経営者はいない。高井神地先(燧灘共同漁業権七八号)の網代の使用も魚島地区の権利である。桝網は持ち主ごとに違った「網のうけ」が取り付けられており、持ち主を海上から一目で識別できる。
 魚島では、春季桝網に並行して、村中一斉に、いか玉のつけ込みが開始される。つけ込みには毎年四月半ばの日曜日があてられ、珍しい漁法で、巣の中には、いかの産卵を誘うためにツゲの枝木が取りつけてある(写真6―3)。一経営体当たり五〇〇~一〇〇〇個のつけ込みが行われるので時期ともなれば、老人・子供総出となり、平地はどこもイカ巣でいっぱいになる。この漁法は、昭和八年山路伊平らによって香川県仁尾町方面より導入されたものである(『魚島漁業史考』)。漁期は四・
五・六の三か月で、この間二日に一回程度あげて漁獲する(図6―2)。

表6-16 魚島村の漁業種類別組合員の水揚高

表6-16 魚島村の漁業種類別組合員の水揚高


表6-17 魚島村の桝網漁業の利用

表6-17 魚島村の桝網漁業の利用


図6-2 魚島村魚島の漁業暦

図6-2 魚島村魚島の漁業暦