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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

五 上島諸島の塩田

 入浜塩田の位置

 図6―3は岩城島と生名島と弓削島の入浜塩田跡の位置を示す図である。岩城島の東海岸の中央の養魚池は掛ノ浦の北浜で、日輪養魚の車えび養殖場である。船越の工場の記号のある所が昔の塩田で、岩城興業の造船所である。
 生名島の塩田は深浦に二浜と、恵生に三浜あった。この地形図で読図できる。深浦は埋め立てられており、恵生は養殖池に利用されている。
 弓削島の塩田跡は、この地形図では読図できない。明神と引野は地名が書いてあるが、堤の地名は書いてない。よくもこんな狭い場所に、明治四三年(一九一〇)の第一次塩田整理まで入浜塩田がよく経営できたものだと思う。


 岩城塩田

 岩城の塩田は、表5―40(五章二節参照)の如く、掛ノ浦の北中南と船越新の四浜ある。面積は北が一町八反九畝一二歩、中が一町九反九畝三歩、南が一町七反六畝一四歩、船越新が一町七反二三歩である(明治一七年)。昭和二九年の専売公社の塩田地図の表によると、北が一・八一一ha、中が一・八六五ha、南が一・六三二ha、計五・三〇八haである。現在北浜は「岩城島車えび㈱」の養殖場となっていて、天草の人増田正安が経営していたが、四月から日輪養魚の池之忠三の手に移った。中浜の南部と南浜は、岩城村のスポーツセンター、プール平野球場に利用されている。専売局時代には、広島県の瀬戸田塩業組合の傘下にあった。
 岩城島の船越の岩城興業造船所は旧塩田跡一町七反の敷地を利用している。嘉永三年(一八五〇)の文書には一町六反八畝となっている。
 岩城島の西部には「浜床」というホノギがある。三浦家の近所にも「浜床」の遺構が残っている。これは揚浜塩田の名残りである。浜床のホノギや製塩土器の発見は、伯方島をはじめ、他の芸予諸島でも見られる。
 岩城島の塩田開発の時代は、今のところ明確な文書を見ていたいが、『伊予岩城島の歴史』(昭和四五年発行)の巻末の古文書の中に、文政一三年(一八三〇)、天保二年(一八三一)、天保六年、天保一一年、嘉永三年(一八五〇)の岩城村の塩浜に関する記事がある。また掛ヶ浦の中浜塩田跡に残る塩竈神社の灯寵一対に、天保四年巳九月吉日と刻まれている。なお『広報いわき』二八〇号(昭和五九年九月一日)に天保四年の畠三畝一八歩の寄附状が紹介されている。塩田開発成就の年を示している。

      
 生名塩田
      
 生名島には、表5―40(五章二節参照)の如く、深浦に一番浜と二番浜があり、恵生に北浜・中浜・南浜の三浜があり、計五浜ある。
 生名五浜の完成年、所有者、面積、地価、現況をみると次の如くである。深浦①②の塩田は天保一三年(一八四二)の開発であり、所有者は村上助九郎柳平という庄屋である。面積は村上麟祥の資料と、明治一七年(一八八四)の表と若干差がある。村上麟祥の資料では①は二町三反一二歩で、地価一一七五円。②は一町七反四畝二三歩で、地価七八六円である。現況は①は昭和五一年九月一日より村民グランドに転用し、②は鉄工団地でゴミによって埋立中である。
 恵生の③北浜と④中浜は、弘化四年(一八四七)の造成で、所有者は村上直三郎(村上柳平)である。面積は③北浜が二町八畝七歩で、地価一〇六一円。④中浜が二町六畝二四歩で、地価一一二八円である。⑤南浜は文政七年(一八二四)の完成で、所有者は村上次郎左ヱ門(村上惣左ヱ門)である。面積は二町六畝七歩で、地価九二八円となっている。現況は北浜を釣のゴカイ虫の養殖池に使用し、中浜と南浜は、昭和五三年二月一日から日輪養殖有限会社の車えび養殖池に活用している。

        
 弓削島の塩田
        
 弓削島は「塩の荘園」として知られ、多くの学者によって研究されている。清水三男、渡辺則文・網野善彦・山内譲らの優れた論文著書があり、最近山内譲はその著書『弓削島荘の歴史』(弓削町昭和六〇年三月発行)により集大成された。芸予諸島の島々は、弓削島を初めとして、古代には製塩土器のようなもので、中世には主として揚浜式塩田で、近世から昭和戦前には、入浜式塩田で製塩されていた。
 表5―40(五章二節参照)の如く明治一七年(一八八四)には、越智郡弓削島に、堤・明神・引野の三浜があった。面積は堤が一町一反七畝二〇歩、引野が九反二畝一九歩、弓野が三反七畝一歩であり、営業人は堤を一人、明神を七人、引野を四人で経営している。明治三八年(一九〇五)の専売制施行時には、表5―41 (五章二節参照)の如く面積二町歩、竈数は一となっており、明治四三年(一九一〇)の第一次塩田整理により廃止され、昭和八年表5―42(五章二節参照)の中からは弓削島塩田は消滅している。
 弓削島を今頃訪ねてみると、平地には家屋が建ち並び、塩田跡を偲ぶことは困難である。土地台帖をみると、①堤の甲一六五八番地は西海岸の南で、明治四四年入浜塩田を廃止している。現在は中央公民館と住宅地で、所有者は次の如く変わっている。明治二一年(一八八八)八月二日瀬戸田の浜田伝衛から、明治二七年(一八九四)一二月二七日広田彦三郎(広田庄三郎)へ、明治二八年七月一二日、田坂初太郎となっている。②明神は番地が九筆に分かれており、中央に位置し、面積九反九畝三歩。明治三七年(一九〇四)に五反四畝二八歩(甲一〇九五)が畑に地目変換、今は小学校敷地となっている。③引野の六九四番地は揚浜で、北方に位置し面積三反五畝一一歩で、うち釜屋敷二八歩であった。明治三一年に引野は畑に地目変換し、現在は住宅地である。
 山内譲の研究によれば、応長元年(一三一一)には弓削島の西海岸と北海岸には図6―7のように(六章三節参照)四六浜もの塩浜が分布していることが判る(『弓削島荘の歴史』八〇頁第五図)。
 現在の地形から推察して、堤・明神・引野は入浜式塩田であるが、あとの四〇余の塩浜は揚浜式に近いものであったかと思う。

図6-3 岩城島・生名島・弓削島の入浜塩田の位置

図6-3 岩城島・生名島・弓削島の入浜塩田の位置