データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

三 生名島の集落

 生名島の沿革

 生名村は愛媛県の東北端に位置し、広島県因島市に面する県境の村である。その中心地は生名島(面積三・六平方㎞)で、他に能小島・平内島など九つの無人島からなる。生名島の地形は一般に急峻で平地に乏しい。最高所は南部の稲浦山(標高一四二・八m)で、これに次ぐ北部の立石山(標高一三九m)と結ぶ分水嶺が南北にのび、島の集落を東西に分けている。
 生名島は越智郡一〇郷の一つに属していたと考えられ、最古の文献記録である保元元年(一一五六)の左弁官下文によると石清水八幡宮護国寺領であった。しかし文治元年(一一八五)にはすでに村上水軍が領有していたものとみられ、室町期には因島村上水軍の支配下にあった。当時の城砦跡は亀島や南端の高松に残っている。また前田・前新開・中側などから中世塩田の跡が発見され、荘園時代に揚浜式塩田があったことが窺われる。
 しかし生名島の開発が進むのは天正一三年(一五八五)秀吉の四国征伐以降で、この戦いに敗れた河野水軍の一族久保・上村の両氏が来島して帰農した。久保源右衛門は開発に功績のあった先覚者としてたたえられている。続いて慶長五年(一六〇〇)の関ケ原の役に敗れた村上水軍の一族村上次郎太夫が、池本・大本・岡本・山本の郎党四氏を率いて来島した。これと先の久保・上村両氏を合わせて生名島の七軒株(七人衆)といい生名島民の中核となった(表6―21)。伝承によると古くからの島民は七軒株の来島の頃島を離れ、一部は菊間町方面に移ったと伝えられる。
 村上治郎太夫は帰農して屋号を水地と称し、元和二年(一六一六)に八和田八幡神社(現生名八幡神社)を現在地に再建した。水地二代目の村上助太夫は、初代庄屋として村の基礎を固め、また大日堂や正福寺を建立して村の開祖といわれている。藩政時代は松山藩に属し、その流刑地として家老奥平久兵衛らが配流された。
 寛政一一年(一七九九)の家数は一一二軒、人口は五三〇人であったが、文化文政期(一八〇四~三〇)頃の宗門帳によると、戸数二〇五軒、人ロ一二二〇人であったという。しかし明治五年(一八七二)の戸籍では、戸数一四九戸(一八三世帯)、人口一〇二八人に減少している。これは明治初年に生名島漁民が温泉郡忽那島(現中島町)へ集団で移住したり、出稼ぎなどで島外に出るものが多かったためと考えられる。生名島の漁業は近世に盛んになったが、漁民の転出によりその後は衰退した。また出稼ぎの多くは船乗りで、土舟乗りや舟大工などは主に大阪・北九州方面にでかけた。
 このように、生名島民は島内での零細な農業に従事するより島外にでて現金収入を得る道を選ぶ、という気風が強かった。明治六年(一八七三)に生まれた浜田国太郎は、こうした島民の気風をうけて郵船会社の火夫となり、やがて日本海員組合の育ての親として活躍し、ジュネーブで開かれた労働者世界大会にも日本代表として出席した。浜田国太郎は立志伝中の人物として尊敬され、昭和一〇年には日本海員組合により厳島公園に彼の銅像が建てられた。
 明治二九年(一八九六)に因島に土生船渠株式会社(現在の日立造船の前身)が設立されると、零細農業と出稼ぎの寒村であった生名島は大きく変貌した。これにより生名島はその労働力の供給地となり、また同社の社宅等を島内に誘致することにより、因島市の都市近郊地帯として位置づけられるようになった。その結果生名島の人口は明治三七年(一九〇四)には二七四軒、一七七七人となり、大正一〇年(一九二一)には三三五軒、二一八八人になった。昭和三〇年には三〇二八人、四五年には三〇九七人で、高度経済成長時代に多くの農村で人口が流出したのに比べ、生名村はむしろ漸増傾向さえみられた。
 生名村の就業人口の約四三%が製造業で、農業は五%に満たない(昭和五五年、表6―22)。製造業従事者は日立造船およびその関連企業に従事するものが多い。因島市とのこのような密接なつながりから昭和三一年には越県合併の運動がおこったが実現しなかった。

        
 生名島の集落
        
 生名島の集落は二八部落からなり、それらは便宜的に六分団に区分されている。生名村の集落は古くから村の中心地域となってきた本村と、因島の造船業の発展によって形成された北部の新興住宅地域に大別することができる。本村は生名八幡神社を中心として江戸時代から開発されてきた地域で、脇・前新開・久保の谷・中の谷・厳島・浦ヶ浜・中側・岡庄・中後・尾又などの各集落がある。これらは古くから成立しだ集落で、本村は北部の新興住宅地域と比べると狭い地域に多くの集落が集中している(図6―5)。この地域の世帯数は三四一で村全体の三四%を占め(昭和六〇年四月現在)、村役場や郵便局および小・中学校などがおかれている。
 役場の東に隣接して小丘をなす厳島は、元は人家一~二戸の離島であったが大正末期に埋め立てられて陸繋島となった。厳島では明治三九年(一九〇六)頃山本仁市が生名島との間の遠浅の海岸を干拓して仁市新開を開いたという。昭和一〇年に村上賢蔵により厳島公園が作られ、現在では住宅地化が進んでいる。
 厳島の南に生名港があり、昭和三三年に村民の寄付金を財源の一部として桟橋が作られたが、それまでは通い舟で沖に出て汽船に乗っていた。生名港は昭和一五年頃その三分の一が埋め立てられて住宅地となり港の機能は衰えたが、現在も弓削汽船株式会社のフェリーが、因島の土生(一日一〇便)のほか、佐島、下弓削方面(一日一一便)を結んでおり、今治行定期便も一日三便就航している(昭和六〇年七月現在)。
 前新開は嘉永四年(一八五一)に築調された新田であるが、昭和四四年に揚浜式塩田跡が発見され、また弥生式土器なども出土している。中側とその南の前田は旧塩田を田にしたもので、前田の水田にはトーメンと呼ぶ沼田があり、そこは深い淵のあとで危険箇所とされていた。前田の水田は島内きっての一等田として評価されていたが昭和四五年にはじまった減反政策により埋め立てられた。現在の生名島の水田は後新開の県道横浜・生名港線にそってわずかにみられる程度である。
 本村の集落に比べ北部の集落は一般に新しく、日立造船の社宅として起源したものが多い。大正七年(一九一八)頃深浦に五十軒長屋が建てられ、銭湯・飲食店・理髪店などでにぎわったという。これらは第一次世界大戦の好景気によるもので、日立造船の好・不況が生名島の集落の盛衰に大きく影響している。昭和一七~一八年頃の日立造船には約一万人の徴用工がおり、その社宅が不足したため生名島西岸に住宅や寮が建てられた。これが恵生・西浦の集落の起源である。
 当時は本村から恵生や西浦などの水田に至る峠越えの道がなく、農作業も百姓伝馬とよぶ小舟で往来していた。そのため島民はこれらの地域をあまり重視しておらず地価も安かったという。現在の西浦は一区から四区まであり、合わせて一三七世帯と島内最大の集落に発展している(表6―23)。また恵生に隣接して公営住宅が建てられ、老人ホームも恵生におかれている。かつての社宅はその後社員が買いとって私有地となり、恵生や西浦の民家には新築されたものが多い。
 立石港は対岸の因島が防波堤の役目をはたす天然の良港で、土生港との間に生名村公営渡船のフェリーが就航している。因島との交通は生名島の最も重要な交通で、深浦と土生を結ぶ渡し船は大正六年(一九一七)の渡船請負条例により村営となった。渡船料金は二銭であったが大正八年(一九一九)に三銭に値上げされ、日立造船への通勤定期は月三〇銭であった。昭和三六年に請負制を廃して公営因島生名渡船事業組合が発足し、因島市と生名村の組合立で運行するようになったが、三九年以降は生名村の単独運行である。フェリーの所要時間は約三分で、立石港を午前六時の始発から午後一一時三〇分の終便まで一日四九往復し、朝夕にはピストン輸送で通勤客を運ぶ(写真6―5)。料金は大人五〇円、小人三〇円で、自転車や自動車のほか手荷物・小荷物などの料金が定められている(昭和六〇年七月現在)。
 因島との交通が活発になると、立石港周辺に商業的機能を持った集落がみられるようになり、県道横浜・生名港線沿線にはガソリンスタンドや電気店・民宿などがある。また立石港の南には自転車店・食堂・スーパーマーケット・美容院・時計店・電気店などの商店が点在している。しかしこれらは商店街を形成するには至らず、生名島は完全に因島市の商圏内に含まれている。
 立石山麓の押揚・打出・波間田・雀などには集落がなく、この地域の農地のほとんどは因島市民が買い取って菜園やみかん畑に利用している。西岸の後新開も集落はなく、かつては沖合の干潟で突き網漁が行われていた。生名島ののり養殖業は昭和四四~四五年をピークに衰え、六〇年には最後の一軒も操業をやめている。代わってゴカイの養殖がおこり、後新開の海岸にはそのビニルハウスが並んでいる。
 生名島最南端の砂浜地区は開拓地で、大正二年(一九一三)に窪田福次郎が入植してみかん栽培を始め、窪田みかんの名で知られた。その東隣の稲浦は幅の狭い扇状地状の傾斜地で、明治中期に隔離病舎や火葬場が建てられた。これらは後に移転し、明治末期頃から入植が始まり養豚・養蚕や除虫菊・梨栽培などがみられた。特に大正末期に栽培が始まった梨は味がよく、一時は生名梨の名で知られた。昭和三四年に稲浦に電気が入り、その後村営住宅や稲浦団地が形成されて新しい住宅地域になった。
 生名島は日立造船の盛衰に村の発展が左右され、造船不況が続く中で生名寮は無人化したままになっている(写真6―6)。また六〇年一一月に発表された日立造船の大幅な人員削減の合理化案は、上島諸島の町村に深刻な雇用不安をひきおこしている。生名島の従業員二九二人(六〇年一〇月二四日現在)をはじめ、弓削・岩城を含む三町村で約七〇〇人の直接雇用者がおり、今後の対応を迫られている。

表6-21 生名島の苗字と軒数

表6-21 生名島の苗字と軒数


表6-22 生名村の職業別就業人口

表6-22 生名村の職業別就業人口


図6-5 生名島の地形区分と集落別世帯数

図6-5 生名島の地形区分と集落別世帯数


表6-23 生名村の集落別世帯数と人口の推移

表6-23 生名村の集落別世帯数と人口の推移