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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

四 弓削島の集落

 弓削島の沿革

 弓削島は愛媛県の東北端にある面積八・八平方㎞の島で、佐島・豊島と共に越智郡弓削町を形成する。弓削島の名は平安時代につけられ、それ以前にはくし島とよばれ、櫛島・串島あるいは久司島などと書かれた。その由来は島の形が湾曲に富み櫛の形に似ていたことによるといわれ、今も久司山・久司浦などの地名が残っている。
 平安時代の弓削島は弓削島荘とよばれた荘園で、その初見は保延元年(一一三五)の「伊予守護藤原忠隆請文」である。当初の領家は鳥羽院で、のも後白河院に譲られたとみられる。治承三年(一一七九)の「伊予国留守所下文」では、弓削島の塩田・田畠の所当官物が免除され、国使不入の地となったことが記されているので、このころ荘園としての形態が整ってきたと考えられる。
 弓削島の荘園は耕地が少なく、平安時代末期に住人たちが荘園領主に提出した解状には「狭少最薄之地」とか「最亡狭少之地」と述べている。そのため荘園からの年貢は主に塩で徴収され、製塩は弓削島の基幹産業であった。鎌倉時代には東寺の荘園となり、『東寺百合文書』は弓削島荘の歴史を知る貴重な資料となっている。康永(一六四二~一三四五)以降になると安芸(広島県)の小早川氏や伊予の能島村上氏らの侵略をうけて年貢未進の状況が生じ、戦国時代末期には東寺の荘園としての弓削島荘は有名無実となった。
 近世の弓削島は今治藩に属し、寛永年間(一六二四~四四)に上弓削・下弓削の二村に分かれた。上弓削村庄屋は田頭家で、その祖先は鎌倉初期に来島した落武者といわれる。元は弓削島北部の鯨(現久司浦)に居住したが、元禄年間(一六八八~一七〇四)に上弓削地区で大火があり、時の庄屋田頭浄貞は上弓削に居を移して復興に努めた。浄貞は農業と海運を村是と定め、止山の山麓に新開を開いたほか、土屋九郎兵衛を広島県沼隈地方に派遣して人夫を移住させ、上弓削港を築いた。この港の上に築いた庄屋屋敷が、のも今治藩の本陣となった(写真6―7)。
 明治二二年(一八八九)の町村制実施により、上弓削・下弓削と佐島・魚島の四村が合併して弓削村となり、役場を大字下弓削においた(魚島村は明治二八年に分離)。明治三七年(一九〇四)には一〇二六戸、四八五八人、大正一○年(一九二一)には一〇二〇戸、四一八六人で、昭和二八年に弓削町となり旧村の三大字を編成したが、のち引野・明神・日比・土生・太田・鎌田・久司浦・沢津・狩尾・大谷・藤谷・豊島・上弓削・下弓削・佐島の一五大字とした。

       
 船乗りの島

 弓削は古くから船乗りの島として知られ、特に日清戦争後は船員になる者が急増して日本有数の船員村となり、「日本のマルタ島」とよばれた。弓削町の昭和五五年の就業人口二三二六人のうち、運輸・通信業従事者は三〇三人で全体の一三%を占め、その多くが船員である(昭和五五年国勢調査)。これを近隣の岩城村・生名村と比較するといずれも四~五%で、弓削町の特色が現れている。弓削町の運輸・通信業従事者を集落別にみると、離島の豊島を除く全集落に分布し、就業人口に占める比率が最も高いのは沢津の二〇・八%で、次いで太田が一七・四%である(図6―6)。
 弓削島は古来瀬戸内海航路の要衝に当たり、古くから海事思想が盛んであった。たとえば、鎌倉時代の年貢輸送船には平百姓の中から選ばれた梶取が従事していたが、同時代の終わり近くになると梶取の職がしだいに専業化してきた。こうして専門的な操船技術をもった船頭があらわれ、やがて専門の運送業者が成長した。
 文安二年(一四四五)の一年間に兵庫北関に入関した船舶を記録した『兵庫北関入船納帳』によると、弓削島籍の船の入関は二六回で、これは上位二〇位以内を占める。弓削島籍の船の船頭は九人で、中には太郎衛門のように一五〇~二〇〇石積の船を擁して七回入関し、また枝船も支配していた有力船頭もみられる。こうして室町時代の弓削島は水運の拠点として重要な役目を果たした。
 藩政時代の弓削島は主な産業であった製塩が衰退し、段々畑やわずかの水田による零細な農業と小規模な漁業の島となり、寛永一三年(一六三六)の『今治御領分御検地畠方帳』では、田畑一〇七町余と記されている。また明治四四年(一九一一)発行の『弓削村誌』は次のように記している。

本村四十三年末の調査に依れば、戸数千百二十戸、人口五千五百二十一人にして(中略)、此の五千五百二十一の依りて以て生活する所の耕地の反別を顧みるに、田の反別二十町歩、畑の反別二百九十九町歩あるのみ、生計の困難なる故なきにあらず。

 このように島内に生活基盤の少ない弓削島民は、藩船の水主となり、あるいは帆船の船頭や水夫として北九州から阪神地方への物資の輸送に従事した。中には遠く長崎県五島列島方面から生魚を運ぶ者もみられ、島内には多くの青年が海上に進出する気風が育まれた。
 『弓削村誌』によると、明治四三年(一九一〇)の就業別戸数は農業八七一戸、工業三八戸、商業一八〇戸、その他三一戸である。その頃既に弓削島民による出稼ぎが盛んに行われ、村の調査で判明した出稼人合計は九〇七人に達する。そのうち海員が七〇五人で全体の七八%を占め、次いで海外旅行者一四三人、下女奉公五五人である(表6―24)。海員は主として大阪・神戸・門司などに進出し、海外旅行者はバンクーバーを中心としてカナダやアメリカ合衆国の太平洋岸、あるいは中国・朝鮮などで水産業に従事した。また下女奉公の出稼地は大阪・神戸が中心であった。阪神方面には下級船員として寄留する島民も多く、『弓削村誌』にも「寄留手続をなさざるもの多し」と記されている。
 島外に出て活躍し実業家として成功した弓削島民の代表は、田坂初太郎(一八五二~一九二一)や浜根岸太郎(一八六一~一九二四)で、海運界での田坂らの活躍は青年たちに海員志望の憧れを広めた。明治三四年(一九〇一)調べによる弓削村出身者の海員は七三五人の多きに達している(表6―25)。これらの海員の多くは水夫や火夫などの下級船員であったが、日清戦争後に、島民出身者から高級船員になった者も多い。神戸の郵便汽船の水夫見習から身を立て、甲種船長免状第一号の所持者となった田坂初太郎をはじめ、第一〇号までの半数は弓削村出身者であったと伝えられる。船長や高級船員の多くはきわめて優秀な実地上がりの海員であったが、外航の拡張にともない専門的な海員養成機関設置の必要性が痛感されるようになった。
 明治二六年(一八九三)実業補習学校規定が制定され、同三二年(一八九九)に実業学校令が発布されると、弓削村長中村清二郎は商船学校設立の世論を喚起し、同三三年(一九〇〇)八月一日、「海員補習学校設置二関スル諮問ノ件」を村議会にはかった。そこでは海員養成機関設置の準備を、弓削・岩城・生名・魚島の四か村が設立する学校組合によって推進することが話し合われた。これに岩城・生名両村が同意し、三か村組合による学校設置を計画したが、組合役員選出をめぐって生名村議会の承諾がえられず脱退したため、弓削・岩城二か村が商船学校組合を設置した。組合長に就いた中村村長は、同三三年一一月一日、越智郡長小松原吉郎の副申書を添えて、弓削海員学校設置の認可申請書を県知事に提出した。
 弓削海員学校は翌三四年(一九〇一)一月一一日付けで知事の認可があり、修業年限三年、定員一二〇名の実業補習学校として下弓削に設立された。同校設立にあたっては、同年三月末で廃校となった東京商船学校大阪分校から教具・教材類が提供され、初代校長にも同分校長であった小林善四郎が就任した。弓削海員学校は多くの人材を輩出し、現在は国立弓削商船高等専門学校となっている。

 弓削島の集落

 弓削島は古くから揚浜式製塩や入浜式製塩が盛んで「塩の荘園」とよばれたが、戦国期から藩政期に衰退し、明治四四年(一九一一)には残っていた塩田一町四反が廃田となった。平地に乏しい弓削島では塩浜の跡の多くは住宅地となり、現在の集落が分布する低地の多くは、こうした昔の塩浜である。荘園時代の塩浜は砂浜の多い西海岸に多く分布し、平地の乏しい東海岸には少なかった(図6―7)。
 弓削島の塩浜の中心は北部の鯨地区で、古くは串の浦・久司浦とよばれた。鎌倉時代におけるこの地区の塩穴の数はクジラ・シマジリ・ツリハマ(ツルバマ)の順に多く、その合計は七六六穴に達して弓削島全体(一八か所二八六〇穴)の四六%を占めていた。また古くは三水とよばれた沢津には一六二穴、下弓削には一二一穴の塩穴があった。
 下弓削の弓削港は天然の良港で年貢塩や商品塩の積み出し港であった。藩政期には今治藩の海駅として風待ち、潮待ち港となり、明治時代に客船の船着き場となることによって下弓削の集落が急増した。また下弓削は住友資本による石灰採掘で潤い、戦後は昭和四九年にフェリー桟橋が完成すると弓削町の玄関として発展している。
 現在の弓削町の集落は弓削島の一五、佐島の三集落と離島の豊島をあわせた一九集落からなり、そのうち人口五〇〇人以上の比較的大きい集落には上弓削・緑ケ丘・岳ノ下・中都・日比がある。昭和四五年からの一〇年間に人口が増加した集落は緑ケ丘・明神・岳の下・浜都・日比の五集落で、特に緑ケ丘の増加が著しい(表6―26)。緑ケ丘は四〇年代に上弓削南部の山麓に開かれた町営の住宅団地で、日比も商船学校の生徒・職員の寮や宿舎を主とする新しい集落である。これに対し豊島をはじめ弓削島東岸の狩尾・大谷や南部の阿土・鎌田などは人口の減少が著しい。
 弓削島の東岸は平地に乏しく、狩尾には塩穴はみられなかった。東岸の集落は現在では過疎化の傾向にあるが文治五年(一一八九)の『作畠検地取帳』によると、弓削島における百姓名の畠地は大谷・津原免・藤谷・日比・楡田などの東海岸に集中して分布しており、平百姓とその下作人たちの屋敷がかなりの集落を形成していたことが窺われる。狩尾には幕末期に大阪から天満大根が導入され、狩尾大根の漬物は弓削の特産物として明治・大正期を通じて今治等へ出荷されていた。
 弓削島の漁業従事者は少ないが土生・下弓削・佐島に比較的多く、特に土生は就業人口の二三%が漁業従事者である(昭和五五年)。土生は明治維新後に広島県三原の西海岸にある能地の漁民が集団移住してきたところで、弓削島の代表的な漁業集落となっている。

図6-6 弓削町の就業人口と運輸・通信業従事者の分布(昭和55年)

図6-6 弓削町の就業人口と運輸・通信業従事者の分布(昭和55年)


表6-24 明治時代後期の弓削島民の出稼人及び出寄留人の変遷

表6-24 明治時代後期の弓削島民の出稼人及び出寄留人の変遷


表6-25 明治時代の弓削出身者の海員

表6-25 明治時代の弓削出身者の海員


図6-7 弓削島の応長元年(1311)の塩浜の分布

図6-7 弓削島の応長元年(1311)の塩浜の分布


表6-26 弓削町の集落別人口と世帯数

表6-26 弓削町の集落別人口と世帯数