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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

六 岩城島の集落

 集落の形成

 岩城島の南岸にある岩城港は、北の積善山で北西の季節風を防ぎ、全面には赤穂根島・津波島をひかえ天然の良港である。瀬戸内海の航路が帆船の発達に伴い沿岸ぞいの北乗りから沖乗り航路となると、岩城港は備後の柄から斎灘にぬける内海航路の最短コースにそう風待ち・潮待ち港として繁栄する。藩政時代の岩城は松山藩に属し、一島一村であった。松山藩主は参勤交代の途次、岩城に宿泊するため、島随一の富豪三浦家を島本陣とした。また藩の海上交通の役務に従事する定水主五〇人も置いた。藩では宝暦年間(一七五一~六四)港の外側に一文字波止を築き、船の停泊の便利をはかる。文化一三年(一八一六)には港の浚渫記録があるが、そこには問屋一〇軒の名があり、当時廻船をもって広く商業活動に従事する商人のいたこともわかる。
 藩政時代の岩城の集落は、岩城港背後の西・東・新地を中心に、浜・高原に及び、少し離れて海原・西部あたりに人家があったのみである。しかしながら人口の増加は新しい耕地の開発をうながし、文化年間(一八〇四~一八)には津波島・赤穂根島の開発、さらに次いで長江・小漕の開発がなされる。これらの開発地には当初は農船でもって通耕していたが、島の北岸の長江組が、在所の組と同じ資格を与えられたのは明治維新以降になるという。明治以降も開発はさらに進み、明治年間には北岸の小漕川流域の荒地が開墾され、第二次大戦後の昭和二四年からは、陸軍の燃料タンクの設置場所であった赤石の開墾がなされ、昭和二七年には一七戸の集落が形成されたりした。
          

 岩城港背後の集落

 岩城港の背後には、岩城島の中心地としての市街地が形成されている。この市街地は俗に本村部落といわれたり、町といわれているが、正式には西・東・新地・谷・浜と区分される。この集落は藩政時代の港町として栄え、沿岸航路の潮待ち港・風待ち港であるとともに、仲合を航海する船の水汲場でもあった。岸壁の一部にみられるガンギといわれる船付場の石段や、大井といわれる共同井戸が往時の面影をよく残している(写真6―10)。また船の出入りの多いところから、造船業も発達した。明治一三年(一八八〇)には七つの造船所があり、その繁栄は近島にならぶべきものがなかったという。港町の機能は参勤交代が廃止され、船の性能が向上するにっれて、明治以降衰退してくるが、造船業もまた因島・大崎などに明治末年以降造船業が勃興するにつれて衰退する。岩城の人口が明治年間に減少しているのは、これらの集落機能の衰退と関連する。
 昭和五年の岩城の商店は七五を数えるが、雑貨店三〇、運送業二一などが多く、他に呉服店四、飲食店四、豆腐屋四、宿屋三、風呂屋二などがみられる。当時の商業は海運業を除けば主として漁師相手のものが多かったという。岩城の漁業は、浜の漁民が明治一七年(一八八四)と三二年(一八九九)の台風の災害を契機に他地区に移住して以降は、地元では盛んでなく、もっぱら因島の箱崎、広島県尾道市の吉和の漁民などが岩城島の沿岸で漁業を営んだ。彼等は船を住みかとする漂海漁民であり、岩城港にもよく入港し、漁獲した魚を販売すると共に、穀物・野菜・薪を購入し、また共同井戸の水を求めて船上で自炊生活をしていた。彼等はまた銭湯をよく利用したので、港の近くに二軒の銭湯があり、繁盛したのである。
 現在岩城港背後の集落には、約五〇軒の商店があり、ほかに岩城村役場・岩城農協・岩城駐在所・岩城郵便局・松山地方法務局岩城出張所などがあり、岩城村の政治・経済・文化の中心地となっている。商店と官公庁が集中しているのは港の背後の役場付近であり、そこを離れるにつれて、住宅地の中に商店が点在している状態であり、家屋の密集の割には商店の密度は高くない(図6―9)。

       
 漁業集落浜
       
 浜は岩城港背後の家屋密集地区の西端にある集落である。この集落は、藩政時代に安芸の能地から漁民が入植して形成した漁業集落であると伝えられている。明治初年には三五〇戸もの戸数があったというが、以後興居島(現松山市)・浅海(現北条市)などへ転出者が続出する。明治一三年(一八八〇)の全戸寄留人名簿によると、その数は八二戸に達し、興居島に四九戸、浅海に二八戸も寄留している。明治一三年には岩城村で一三〇戸の漁家を数えたが、その大部分はこの浜の漁民であったので、当時の浜の戸数はこの程度に減少していたものと考えられる。漁民の転出の続いていた浜に、追いうちをかけたのが明治一七年(一八八四)と同三二年(一八九九)の台風に伴う風水害であった。砂浜に立地する浜の集落はほとんど流失し、漁民は先発隊の移住していた興居島・中島・浅海へと集団で移住していく。かくして大正年間以降は浜の漁業集落は衰退してしまった。移住民は当初は盆・正月などに帰郷していたが、移住先での生活が安定するにつれて墓地もひきあげ、移住先に定着してしまった。
 昭和五年の浜の戸数は三五戸であったが、漁業を営むものは数戸にすぎず、他は農業を営んだり、石炭や石材を運搬する船乗りの多い集落にと変質していった。現在浜の戸数は四八戸(町営住宅を除く)を数えるが、住民の主な生業は島内や因島の造船工場に勤めるものが多く農業を兼業として営んでいるものが多い。浜は漂海漁民の定住した漁業集落が、台風の災害を契機にして、また他地区に集団移転してしまった事例といえる。

図6-9 岩城村岩城港背後の集落(昭和60年)

図6-9 岩城村岩城港背後の集落(昭和60年)