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愛媛県史 地誌Ⅱ(東予西部)(昭和61年12月31日発行)

一 岩城島の観光

 観光資源

 岩城島は海と山の風光に恵まれた島である。島の中央にそびえる積善山は標高三七〇m、上島諸島の中で最も高峻な山地である。山は高度二〇〇m以上の所で特に急峻であるが、この部分は堅硬なホルンフェルスからなり、周囲の花崗岩に対して風化侵食作用に対する抵抗性の強いところから、このような急峻な山地が形成された。山頂には展望台があり、周辺の島々の眺望をほしいままにすることができる。晴天時には、遠く石鎚連峰を望む事もでき、瀬戸内海国立公園有数の景勝地である。積善山の北斜面、標高二〇〇mの地点に花崗岩の巨石がそびえているが、ここには妙見菩薩を祀る妙見神社があり、島内はもとより、生口島をはじめ瀬戸内海沿岸各地から参拝者がたえない。
 岩礁の多い海岸は魚族の生息が多く、磯釣り・沖釣りの好適地が多い。磯釣りの好適地としては、島の西南部の菰隠崎と島の東部の聖崎が有名である。岩城島の属島津波島には、花崗岩の風化した白砂が緑の樹木にはえる白砂青松の海岸があり、夏の海水浴場としてにぎわっている。
 岩城島の人文的観光資源としては、旧島本陣跡、亀山城跡、西部の祥雲寺観音堂などがあげられる。旧島本陣跡は岩城港奥の町の中心部にある。岩城は内海交通の要路にあたるところから、藩政時代松山藩主が参勤交代の途次宿泊した本陣があった。島本陣三浦家は新田開発による農地経営、塩田経営、金融業や木綿の商いなどで繁栄した岩城随一の資産家であった。その邸宅は間口一二間、奥行二七間、敷地面積は三四五坪にも達した。本陣には大名の出入りする御成門、上段の座敷、畳敷の便所などがあり、他に脇陣・塩倉・米倉・麦倉・道具倉・臘板場などが建ち並んでいた(図6―10)。一八代当主三浦敏夫は歌人若山牧水の門下であったので、大正二年(一九一三)牧水が上京の途次に立ち寄り、また牧水の歌友吉井勇が昭和一一年牧水をしのんで三浦家に投宿し、それぞれ歌詩を残している。三浦邸はその後空屋となり、荒れるにまかされていたが、昭和五六年岩城郷土館として修築復元された。その庭には若山牧水の歌碑も建っている。
 亀山城跡は、岩城の町の東端の丘陵上にある。城は水軍村上家の流れをくむ村上敬吉によって、明徳三年(一三九二)構築されたと伝えられる。本丸・二之丸・三之丸・武者走などの跡が残り、海岸には桟橋の脚柱の跡とおぼしき大小の穴がいくつもうがたれている。城跡には岩城八幡神社が鎮座し、そこから岩城港と町並みを一望のもとに見下ろすことができる。
 西部の祥雲寺観音堂は寺伝によると大同元年(八〇六)太山寺建立の残材をもって建設されたと伝えるが、安永六年(一七七七)の修築に際して奉行に差し出した願書所載の棟札の写しによると、永享三年(一四三一)に上棟された一重唐様の仏殿とのことである。室町時代の唐様を主体とした貴重な建築であり、昭和二五年国の重要文化財に指定された(写真6―11)。境内には樹齢五〇〇年で、舟形に刈り込まれた舟形うばめがしがあり、県の天然記念物に指定されている。

      
 観光開発
      
 昭和三五年に三七六四人を誇った岩城島の人口は、昭和六〇年には二九三四に減少した。造船業以外にさしたる産業をもたない岩城村は恵まれた観光資源を活用し、観光開発に力を注いでいる。
 瀬戸内海国立公園有数の景勝地である積善山へは、岩城の町と小漕からドライブウェイが通じている。道路は昭和三九年から一〇年の歳月と一億三七五〇万円の巨費を投じて建設された。北部線三・七㎞、南部線二・八㎞で、幅員は三・六mの全面舗装であり、山頂ちかくまで乗用車で登ることができる。山頂には展望台があり、付近には休憩所、広場、便所もあり、沿線には老人会・婦人会などの労力奉仕で植樹された桜並木もある。
 旧島本陣三浦家は昭和五六年九月村費三〇〇〇万円を投資し、その一部を復元すると共に、設備・備品をととのえ、昭和五七年四月岩城郷土館として開館した。本陣の遺構や牧水の歌碑を訪ねる見学者は、開館当初は村内の者が多かったが、一年後には外来者の方が多くなっている。夏季を中心に春・秋の観光シーズンに来訪者が多い(表6―27)。

図6-10 岩城村の島本陣三浦家の間取

図6-10 岩城村の島本陣三浦家の間取


表6-27 岩城村岩城郷土館の見学者数

表6-27 岩城村岩城郷土館の見学者数